劇音楽の発達
紀元前5世紀には、文芸の中心がアテネに移り悲劇や喜劇が開花しますが、これは演劇と音楽と舞踊が一体となった総合芸術であり、コンクールの形で競演されていたとされます。
ギリシア悲劇は合唱隊の歌の流れを受け継いで詩の形態を保ち、紀元前5世紀の最盛期には、特に会話の部分で日常会話のリズムに近いイアムボス(短長脚)の韻律を主体としていました。
そして悲劇の最も発達した形式では、最初に舞台の状況を説明するプロロゴス(序章)に始まり、続いてコロスと呼ばれる合唱隊が登場して入場の歌(パロドス)を歌います。
その後エペイソディオンと呼ばれる会話の部分と、スタシモンと呼ばれる合唱隊の歌と踊りの部分とが交互に何度か繰り返されて、最後の場面のエクソドス(終章)をもって終わる形をとっていました。
俳優は1人から始まり3人までとされ、合唱隊の人数は悲劇の三大詩人アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの時代には12~15人の集団で群衆役となって歌い踊り、伴奏はおおよそアウロスで行われていたとされます。
悲劇の競演が行われた場所については、山の斜面を利用した野外劇場であったとされ、紀元前5世紀以降にはアクロポリス東南麓のディオニュソス劇場がその主舞台となっていき、その劇場の構造は時代と共に次々と改良されていくことになります。
基本的な構造ではアクロポリスの丘の傾斜を利用したテアトロン(観覧席)、最前列中央の手前に位置するオルケストラ(円形の舞踊場)、テアトロンと反対側でオルケストラと接するプロスケニオン(舞台)、その後方のパラスケニオン(翼室)を伴ったスケネ(楽屋)といった形になります。
重要なオルケストラでは手前半分で合唱隊が歌い踊り、後方半分で俳優が演技をしていたとされています。プロスケニオンは、俳優が演技をする空間を広げるためのスペースで、スケネは俳優が衣装替えをする建物とされています。
合唱隊の歌から始まり、紀元前5世紀に頂点に達した悲劇は、次の紀元前4世紀以降には、次第に合唱隊の存在が軽視され俳優の役割が大きくなっていくことになります。
それはつまり、合唱隊の衰退と共に変貌していき、音楽性が失われていくことになるのです。
<古代ギリシアの劇場>