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交響曲 第4番 ヘ短調 Op.36 第4楽章【チャイコフスキー】~音楽作品 名曲と代表曲

 

 

後期3大交響曲の一つとされるチャイコフスキーの名作

 

チャイコフスキーは交響曲を6曲残しています。「交響曲第1番」を作曲したのが1866年で、最後の「交響曲第6番 悲愴」が完成したのが1893年です。

 

19世紀後半の約4半世紀に、チャイコフスキーは6曲の交響曲を作曲したことになり、この数はベートーヴェン以後の交響曲作家(ブルックナー9曲・マーラー9曲)などと比べても、決して少ない数ではありません。

 

また、交響曲を残したロシア(ソビエト)の作曲家も数多くいますが、実際に演奏されるのはチャイコフスキー及びショスタコーヴィチの作品であり、チャイコフスキーの作品は特にロシアのロマン派交響曲を代表するものになっています。

 

1876年にチャイコフスキーは富裕な未亡人フォン・メックと知り合い、翌年の1877年からフォン・メックが提供した年金を受けています。

 

未亡人のフォン・メックは、亡夫が経営した鉄道事業により莫大な遺産を所持し、それを芸術家の支援に充てることを誇りとしていました。

 

2人は正式に会うこともなく、文通を続けながらの支援でした。彼女からの年金によって経済的にも安定したチャイコフスキーは、作曲に専念できるようになり、直ぐに「交響曲第4番」と歌劇『エフゲニー・オネーギン』に取り掛かります。

 

しかし、同じ頃チャイコフスキーは突然、アントニーナ・イヴァノヴナ・ミリュコヴァという女性に求婚されることになります。彼女はかつてモスクワ音楽院の通信教育を受けたことがありますが、チャイコフスキーとは直接の面識はなかったといいます。

 

内気なチャイコフスキーは彼女の情熱に負けて結婚しましたが、ひと月も経たないうちに最初の破局を迎えることになり、彼女はチャイコフスキーの芸術を全く理解しないどころか、極めて卑俗な女であったといいます。

 

一時、2人は仲直りをし再び生活を共にするようになりましたが、これも長くは続かず僅か半月でチャイコフスキーは家を後にしました。

 

その後チャイコフスキーは肺炎を患ってしまい、交響曲第4番のオーケストレーションの作業中でしたが、彼は自ら命を絶とうと凍死を企てます。

 

1877年9月17日の夜、冷たいモスクワ川に腰まで浸かっているところを通行人に発見され救け出され、一命を取りとめたものの2日間は生死の境を彷徨っていました。

 

ペテルブルグに移されたチャイコフスキーは、弟のアナトリーに看病され、2週間ほど病院で人事不省に陥っていました。

 

その後、病院を退院したチャイコフスキーは、アナトリーと二人でスイスに移動し、さらにウィーン、ヴェネチアと旅に出掛けます。

 

11月には中断していた交響曲第4番のオーケストレーションを再開し、12月26日イタリアのサン・レモの地で全曲のオーケストレーションを完成させ、1878年1月7日に「交響曲第4番」を最終的に完成させました。

 

初演は1878年2月22日に、モスクワのロシア音楽協会演奏会で、ニコライ・ルビンステインの指揮によって行われ、この作品は感謝の意を表してメック夫人に捧げられました。

 

 

 
  




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