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ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35 第2楽章【チャイコフスキー】~音楽作品 名曲と代表曲

 

 

 

カンツォネッタの旋律が美しい第2楽章

 

1877年、チャイコフスキーは不幸な結婚によって傷ついた身心を癒すため、スイスのジュネーブ湖畔クラランに転地療養し、この間イタリアなどへ旅行しながら体力と気力の回復を図りました。

 

彼の援助者であるフォン・メック夫人からの毎年の年金もあり、そのため音楽院の教授職も辞め、晴れて自由の身となっていたのです。

 

その甲斐あってかこの時期は創作意欲が旺盛になり、交響曲第4番や歌劇『エフゲニー・オネーギン』を完成するなどしています。

 

翌年の1878年4月、友人でヴァイオリニストのイオシフ・コテックが、3年前にパブロ・デ・サラサーテが初演して大成功を収めた、エドゥアール・ラロのヴァイオリン協奏曲第2番《スペイン交響曲》の譜面を携えて、クラランのチャイコフスキーのもとを訪ねてきました。

 

早速、チャイコフスキーはこの『スペイン交響曲』を研究し、その研究成果の作品として本作は着想されたとされ、コテックの助言を得ながら僅か数週間で書き上げられ、コテックのクララン滞在中の1ヶ月ほどの間に本作は集中的に仕上げられました。

 

イオシフ・コテック(左)とチャイコフスキー(右)1877年

 

 

完成直後、彼の最大の理解者であるフォン・メック夫人に譜面を送りましたが、夫人は偉大さを認めるだけで曲を褒めることはなく、また当時ロシアで最も偉大なヴァイオリニストとされていた、ペテルブルク音楽院教授のレオポルト・アウアーにも送りましたが、アウアーは楽譜を読むと演奏不可能として初演の依頼を断るなど、冷たい反応しか得られませんでした。

 

結局初演は、完成後3年以上経った1881年12月4日に行われ、当時ウィーンを中心に演奏活動をしていた、後にライプツィヒ音楽院教授となるロシア人ヴァイオリニストのアドルフ・ブロツキー(1851~1929)の独奏と、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるものでした。

 

しかし、指揮者も楽団員も作品を好まず、全くの無理解のうちに演奏を行ったため、その演奏は酷い様相であったとされ、独奏者のブロツキー以外は誰もこの曲に興味を示さなかったと言われています。

 

聴衆も批評家もこの作品を酷く批判し、特にエドゥアルト・ハンスリックは、その豊かな民族色に辟易し『悪臭を放つ音楽』とまで言い切りました。

 

周囲の不評にも関わらずブロツキーはこの曲の紹介に努め、様々な機会にこの作品を採り上げ、次第にこの作品の真価が理解されるようになりました。

 

数年後、初演を拒絶したアウアーも演奏するまでに認めさせ、また弟子のエフレム・ジンバリスト、ヤッシャ・ハイフェッツ、ミッシャ・エルマンなどにこの作品を教え、彼らが名演奏を繰り広げることで評価が高まっていき、ついには4大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれるまでになりました。

 

このヴァイオリン協奏曲は、いち早くその真価を認め、初演や世界中で演奏を行うことに尽力し、この作品の普及に貢献した恩人アドルフ・ブロツキーに献呈されました。

 

第2楽章はカンツォネッタ(小さい歌)とあるように、優しく可愛らしい楽章であり、オーボエ、クラリネット、ファゴットにホルンを加えたしみじみとした序奏のあと、弱音器を付けたソロが憂愁を帯びた甘い主題を奏でます。

 

中間部は変ホ長調となって、旋律もやや明るく華やかになり、第三部での再現は比較的短く、ソロが終わると管弦楽による終結部に入って静かに終わり、休みなく終楽章へと移っていきます。

 

 

 
  




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