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歌劇 《蝶々夫人》から 「ある晴れた日に」

 

 

時に“3大オペラ”と評されることもあるプッチーニの代表作

 

「ある晴れた日に」は歌劇《蝶々夫人》の劇中歌であり、同歌劇を代表する有名なアリアで、単独で歌われることも多い作品です。

 

プッチーニは『蝶々夫人』では日本、『西部の娘』ではアメリカ、そして『トゥーランドット』では中国と、当時の異国趣味の風潮に乗った歌劇を三作残しています。

 

その中でも長崎が舞台になっている『蝶々夫人』は、日本ではもとより世界中で最も上演回数が多い作品で、プッチーニの音楽が持つ抒情的な特質がよく示されている曲として名作の一つに挙げられます。

 

歌劇《蝶々夫人》は1904年の明治の長崎を舞台に、没落藩士令嬢の15歳の芸者だった蝶々さんと、アメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描いています。

 

ピンカートンは一時の浮気心で蝶々さんと結婚しますが、そのままアメリカへ帰ってしまいます。そんなピンカートンを信じて、帰りを待ち続ける蝶々さんが歌うのが有名なアリア「ある晴れた日に」です。

 

ピンカートンはアメリカで正式に結婚した妻を連れて、3年後再び日本に帰って来ます。すべてを察した蝶々さんは、ピンカートンとの間に生まれた子供を夫妻に託し、父から譲り受けた守り刀で自らの命を絶つのです。

 

イタリア・ローマのトレヴィの泉

 

 

1900年5月、『トスカ』がコヴェント・ガーデン歌劇場でイギリス初演されるのに立ち会うために、ロンドンに滞在していたプッチーニは、同歌劇場の舞台監督ニールソンに勧められるままに、デューク・オブ・ヨーク劇場で上演されていた『蝶々夫人』を観劇しました。

 

この『蝶々夫人』の原作は、アメリカの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが、1898年にアメリカのセンチュリー・マガジンに発表した短編小説「Madame Butterfly(マダム・バタフライ)」で、これをダヴィッド・ぺラスコが戯曲にし、既にニューヨークでは評判を得ていました。

 

ロングは一度も日本を訪れたことがありませんが、姉が宣教師として日本に住んでいたことがあり、その姉から日本についての知識を得て、日本を舞台にした作品を多く書いています。なお、プッチーニはこの曲に用いた日本の旋律を、当時の大山駐伊公使の夫人を通して知りました。

 

プッチーニはこの芝居に感激すると、直ちにミラノのリコルディに手紙を送って歌劇化の希望を伝え、帰国すると台本作成をこれまで通りイッリカとジャコーザに依頼しました。

 

しかし、原作者ベラスコの承認を得るのが遅れたり、プッチーニの注文が多かったりと、なかなか台本が出来上がらずにいました。

 

ようやくプッチーニが作曲に取り掛かった直後の1902年2月、今度はプッチーニが自動車事故に遭うなど、作曲は大幅に遅れ完成は1903年に持ち越されました。

 

そして1904年2月17日、前評判が上々のなかイタリア・ミラノのスカラ座で初演が行われました。しかし、出演者も聴衆も未知の日本の風習や耳慣れない日本の旋律を十分に理解することができず、散々な失敗に終わる結果となりました。

 

スカラ座では一度の上演だけでしたが、その後トスカニーニの忠告を受け入れて随所に改訂を施し、1904年5月28日にブレシアで行われた再演では大成功を収めました。

 

 

 
  




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