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歌劇《ラ・ボエーム》から 「ムゼッタのワルツ~私が街をあるけば」

 

 

 

夢に生きる若者たちの日常を描いた作品

 

『ラ・ボエーム』はプッチーニが書いた四作目の歌劇で、最もよく演奏されるイタリアオペラの一つであり、「トスカ」「蝶々夫人」と並ぶプッチーニの3大オペラにも数えられています。

 

1893年に発表した前作『マノン・レスコー』が出世作となったプッチーニは、その特質である流麗な旋律の美しさと写実的な描写の確かさをいっそう推し進め、ボヘミアンたちの青春像を見事に表現することに成功しました。

 

4幕オペラでそれぞれの完成度と絶妙なバランスは素晴らしく、「私が街をあるけば」は通称「ムゼッタのワルツ」として有名な第二幕のアリアです。「ラ・ボエーム」とはボヘミアンのフランス語表記です。

 

なお、同じ題材によって先に歌劇を発表したレオンカヴァッロは、プッチーニが後から競作の形で書いたことを怒り、二人は以後死ぬまで絶交したというエピソードがあります。

 

この歌劇は、フランスの作家アンリ・ミュルジェールが書いた「ボヘミアンの生活と情景」と題する小説から、ルイージ・イッリカが作った台本をもとにしています。

 

ミュルジェールは自らパリのラテン区(カルチェ・ラタン)で貧乏な芸術家生活を送った体験がありますが、プッチーニもかつてパリを訪れてラテン区の生活に触れたことがあります。

 

イッリカが台本の作成に取り掛かったのはプッチーニの『マノン・レスコー』が初演される以前ですが、プッチーニがイッリカとジュゼッペ・ジャコーザに正式に台本を依頼したのは『マノン・レスコー』初演後のことです。

 

ミュルジェールの小説は23篇からなる短篇集で、一貫した筋書があるわけではないので歌劇の台本にするにはかなり難航した上、プッチーニが何度も書き直しを要求したのでイッリカは憤概し、ジャコーザは辞退するまでに至りました。

 

それにも関わらず台本ができたのは音楽出版商リコルディの仲介があったからで、ほぼ2年をかけて台本の制作が進みだすと、プッチーニはその完成を待たずに作曲を開始し、1894年から1895年の秋までの間に作曲を終了しました。

 

初演は1896年2月1日にトリノ・レージョ劇場で、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮により行われ、批評家の不評はあったもののまずまずの成功を収めました。同年4月にパレルモで上演されて以来は、人気が高まり確かなものとなりました。

 

 

 
  




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