ラプソディ・イン・ブルー
ジャズのスペシャリストが初めてクラシックの世界に足を踏み入れた作品
名作「スワニー」をはじめ、数多くの優れたジャズ・ソングを書いたガーシュウィンが、この「ラプソディー・イン・ブルー」で目指したのは、アメリカのジャズとヨーロッパのシンフォニックな音楽との融合でした。
ガーシュウィンはこの「ラプソディー・イン・ブルー」を書いたあと、ヨーロッパの音楽語法と手法、形式やオーケストレーションを学ぶため1928年にパリへ行って、ラヴェルとストラヴィンスキーに師事して作曲法を学ぼうとしました。
しかし、ラヴェルは「なぜ二流のラヴェルになりたいのか、あなたは一流のガーシュウィンではないか、自分の道を行きなさい」と言って断ったというエピソードが残っており、ストラヴィンスキーも断っています。
「ラプソディー・イン・ブルー」は、ガーシュウィンの才能に注目していた、当時の高名なバンド・リーダーのポール・ホワイトマンが、自身が提唱する<シンフォニック・ジャズ>の演奏会(1924年)で使用するために、ガーシュウィンに新作を依頼し作曲されたものです。
原曲はピアノとジャズ・バンドのための楽曲でしたが、ガーシュウィンがオーケストレーションに不馴れであることを知っていたホワイトマンは、あらかじめ作曲家のグローフェに編曲を依頼していました。
1924年の初頭に短日時で書き上げられ、2月12日にニューヨークのエオリアン・ホールにおいて、ガーシュウィンのピアノ、ホワイトマン指揮の彼の楽団によって初演され大成功を収めました。
現在の形になり、これほど高い評価と人気を得ていることについては、グローフェの優れた編曲が大きくあずかっていることを忘れるわけにはいかないでしょう。