ルーマニア民俗舞曲 Sz.56 1. 棒踊り
ルーマニアの各地の民謡を題材にした親しみやすいピアノ小品集
ルーマニア民俗舞曲は、1915年に作曲された6曲からなるピアノの小品の組曲で、1917年にバルトーク自身によって小管弦楽に編曲されました。
原曲の民族音楽的な要素をより強く感じさせるバルトーク自身の小管弦楽版は、今では小オーケストラのためのレパートリーの一つとして定着しています。
他にもハンガリー弦楽四重奏団の主宰者で、バルトークと親交があったヴァイオリニストのセーケイ・ゾルターンによるヴァイオリンとピアノによる編曲版(1926年)、アーサー・ウィルナーによる弦楽合奏版、管楽アンサンブル版などが存在します。
この作品はルーマニアの友人でバルトークの良き理解者であるイオン・ブシツィアに献呈され、イオン・ブシツィアはバルトークの民謡採集に最も協力した人物です。
当時ハンガリー王国の一部であったルーマニアの各地の民謡が題材にされていて、その親しみやすい旋律と手ごろな演奏時間から、バルトークの小品の中では人気が高く、コンサートでは度々取り上げられる作品で、ピアニストだったバルトーク自身もコンサートの際には頻繁に演奏していました。
初演は1920年1月16日に当時ハンガリー領だったコロジュヴァール(現ルーマニア領クルージュ=ナポカ)で、『トランシルヴァニアのルーマニア民俗舞曲』の名目で、ピロスカ・ヘヴェジの独奏によって行われました。
ルーマニア・トランシルヴァニア地方の都市シビウ
バルトークは作曲家・演奏家である他に、世界的な民俗音楽研究の権威という別の一面を持ち合わせていて、1913年にはアフリカのアルジェリアまで遠征するなど採集活動は精力的なものでした。
バルトークが初めて民謡に触れたのは23歳(1904年)頃のことで、ゲルリーツェプスタ(現在スロヴァキア領)において、トランシルヴァニア出身者の歌うマジャル民謡に出会い、また民謡について研究を始めていたコダーイと出会います。
1905年に参加したルビンシュタイン音楽コンクール(パリ)で、当時ハンガリーでは知られていなかったドビュッシーの印象主義音楽を知り、1906年からは研究者達やコダーイらと共にハンガリー各地の農民音楽の収集活動を開始します。
バルトークは26歳(1907年)の時にブダペシュト音楽院ピアノ科教授に就任しますが、53歳(1934年)で退職するまで、民謡の採集活動を続けて更に編曲なども行っており、作品においては1908年の弦楽四重奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲第1番2楽章、ピアノ小品などに民謡採集の影響が表れています。
退職後は科学アカデミーの民俗音楽研究員となり、自身や研究者達が採集したコレクションの整理に取り組める環境に身を置くこととなりますが、バルトークの民俗音楽研究は単なる収集活動に留まらず、収集した素材を分析し自らの音楽語法に昇華させた点に大きな意義をもたらしています。
ハンガリーやルーマニアなどの民謡を一万種も収集し、そのうち1000曲に及ぶ作品が世に送り出されていて、「ルーマニア民俗舞曲」はバルトークのそうした民謡採集と研究がもたらした作品の一つです。