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《管弦楽のための協奏曲》 第4楽章 「中断された間奏曲」

 

 

 

白血病や鬱状態から息を吹き返して書き上げられた傑作

 

「管弦楽のための協奏曲」は、1943年に作曲された5つの楽章からなる管弦楽曲で、バルトークの晩年の代表作で最高傑作の一つにも数えられています。

 

1943年8月15日から10月8日にかけて作曲されたとされ、初演は1944年12月1日にボストンにて、セルゲイ・クーセヴィツキー指揮のボストン交響楽団によって行われました。ちなみに初演に際してバルトークは、医師の忠告を無視してボストンに行きリハーサルから立ち会いました。

 

初演は成功に終わり、バルトークは何度も舞台に出ては聴衆の喝采に応えたことを友人に伝えています。この曲は一気にポピュラーになり、彼の代表作として演奏会レパートリーとして定着しています。

 

この楽曲は1943年当時ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーが、バルトークに作曲を依頼して書かれた作品で、クーセヴィツキーの音楽監督就任20周年を記念する作品として作曲されました。

 

また他界したクーセヴィツキーの夫人ナターリヤの追憶のための作品として、彼女と共に設立した現代音楽の普及を目的としたクーセヴィツキー財団からの委嘱として書かれています。

 

五つの楽章で構成され、各楽章のタイトルはバルトーク自身によるものです。

第1楽章 Introduzione(序章)
【Andante non troppo - Allegro vivace】

 

第2楽章 Giuoco delle coppie(対の遊び)
【Allegro scherzando】

 

第3楽章 Elegia(悲歌)
【Andante non troppo】

 

第4楽章 Intermezzo interrotto(中断された間奏曲)
【Allegretto】

 

第5楽章 Finale(終曲)
【Pesante - Presto】

ナチスの台頭と政治的軋轢から、バルトークはアメリカに移住していましたが、アメリカでは全くバルトークの音楽が受け入れられず、ライフワークである民俗音楽の研究すら出来ず、苦しい生活を強いられ完全に創作の意欲を失っていました。

 

当時のアメリカにはバルトークの独特な作風を受け入れる土壌がなかったとされ、戦争による印税収入などのストップによる経済的な困窮も相まって強いうつ状態にありました。

 

私はかなりの悲観論者になりました。どんな人をも、どんな国をも、またどんなことをも信じられません。」とかつてのピアノの弟子に書簡を送ったほどです。

 

金銭的にも逼迫し、体調も芳しくないバルトークを励ましたのが、バルトークがハンガリーからアメリカへ移住する際にサポートした、指揮者のフリッツ・ライナーやヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティらの仲間達でした。

 

この同郷の音楽家の友人たちが、クーセヴィツキーに委嘱の提案をしたとも言われ、この委嘱がなければ「弦楽四重奏曲第6番」がバルトークの最後の作品になっていたであろうと考えられています。

 

ブージー・アンド・ホークス社の現行版の前書きによれば、クーセヴィツキーは委嘱のためにバルトークの病室を訪れる際に、当時としては破格の1000ドルの小切手を持参したとあります。

 

この委嘱はバルトークにとって創作意欲を取り戻す機会となり、体力的に作曲できるかわからないと渋っていたというバルトークに、クーセヴィツキーは「この委嘱には期限がない」と説得したと言います。

 

ニューヨーク郊外のリゾート地であるサラナック湖で作曲に着手し、バルトークは僅か2ヶ月でこの作品を仕上げました。その後1945年(64歳)に死去するまで、この作品以外にも『無伴奏ヴァイオリンソナタ』や『ピアノ協奏曲第3番』などの作品を残しています。

 

 

 
  




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