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能は歌舞劇で狂言は当時の現代劇

西歴1000年から1500年という時代は、白河上皇が創立した院政の開始(1086)から室町幕府の崩壊(1573)という歴史上の区分にほぼ相当するが、これを日本の音楽史・芸能史における中世と捉える考え方がある。すなわち平安中期に誕生した今様などに中世の萌芽を見。永禄年間(1558~70)に伝来した三味線をもって近世の始まりとする考え方である。

 

中世の音楽・芸能の多くは民衆から生まれ、その民衆とともに貴族や支配階層が享受していた。このことが古代とも近世とも違う点であり、大きな特徴といえそうである。今様、白拍子、早歌、曲舞、平家、能、狂言など中世には数多くの芸能が生まれたが、ごく一部を除いて伝承が途絶えてしまっているのが現状である。

 

そのなかで、能と狂言は先行芸能や同時代の芸能を貪欲に吸収することで音楽性と演劇性と芸術性を高め、今日まで芸能としての生命を脈々と保っている。本章では中世の芸能を集大成した大河のごとき感がある能と狂言の歴史などを概観することで、日本の音楽史・芸能史における中世の一側面を追うことを目的とする。

能楽の歴史

 

(1)散楽から猿楽へ

 

能は約600年前の室町時代に、観阿弥、世阿弥父子が芸術的に完成した歌舞劇であり、狂言は当時の現代劇である。おもに古典に題材を求めた詩劇である能と、、セリフを主体とする喜劇である狂言とは、一見対照的な演劇に見えるが、実は仲のよい兄弟として同じ舞台空間を共有し、互いに協力し、影響を与え合ってきた。

 

能と狂言の総称として《能楽》という言葉がよく用いられるが、これは明治以降に一般化した用語。江戸時代まではおもに能も狂言も猿楽といわれていた。

 

猿楽のルーツは散楽といわれている。散楽とは唐の正楽に対する俗楽のこと。曲芸奇術、傀儡子などを含む雑多な芸能で、奈良時代に日本に伝来、散楽戸という国家レヴェルの養成機関が設けられたが延暦元年(782)に廃止された。

 

そして平安中期ころ、散楽は猿楽という表記に変わる。その理由のひとつに芸態が変化したことが推測されている。すなわち、そのころの猿楽は現在の狂言の原形のような秀句、物まね、滑稽な寸劇などを中心とするものであったが、鎌倉中期・後期ころは祝禧劇である《式三番》が猿楽の表芸であったらしい。

 

座の長老が《式三番》を担当し、下部組織が娯楽劇を演じていた。この娯楽劇がどのような経緯で歌舞的要素を充実させていったかは不明であるが、歌舞劇としての形を整え始めた勢いで立場が逆転し、両者が別行動を取るに至る。

 

さて《式三番》とは《翁》の古称であるが、呪師の流れを汲み、その源流は平安中期までさかのぼると思われる。今日でも《翁》は「能にして能にあらず」といわれており、天下泰平、五穀豊穣を祈る儀式能として神聖に扱われている。

  




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