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能作者父子~観阿弥と世阿弥~

(2)観阿弥、世阿弥父子の出現

 

鎌倉幕府滅亡の年に生まれた観阿弥(元弘3年〔1333〕~至徳元年〔1384〕)は大和猿楽の結崎座に所属し、観世座の初代大夫となった役者。芸域の広さを誇る希代の名優であり《自然居士》《卒都婆小町》《通小町》という起伏に富んだ名作を残した。

 

先行芸能や当時の流行芸を貪欲に吸収し、子の世阿弥とともに能の芸術性を高めたことが特に評価されている。たとえば、観阿弥が複雑なリズムとまとまった形式を有する白拍子系統の遊芸である曲舞と、旋律主体の能の小歌節とを融合させたことによって、音楽的な面白さと演劇的な表現の充実が可能となった。

 

応安年間(1368~75)に醍醐寺での演能をなし遂げた観阿弥は、永和元年(1375)こrの今熊野の催しに、初めて猿楽を見物する室町幕府三代将軍の足利義満を迎える。このように観阿弥は、当時の政治・文化の中心地である京への進出をはかり、時の権力者や貴族階級の支持を得ることに成功したのである。

 

また世阿弥(貞治 2 ?年〔1363 ?〕~嘉吉3 ?年〔1443 ?〕) はその容姿と才能によって義満の寵愛を受けると同時に、「本説正しき」能で鑑賞眼の高い貴人を満足させる作能術にも長けていた。《高砂》《忠度》《清経》《花筐》《融》《砧》《山姥》など完成度の高い作品を書き、《井筒》のような夢幻能の形式を完成に導いた。

 

そして一座の運営に腕をふるった一方で、『風姿花伝』をはじめ21部の芸術論を残した理論家でもあった。世阿弥は四代将軍義持の後援も得たが、六代将軍義教が世阿弥父子よりも彼の甥の音阿弥を贔屓、永享5年(1433)に音阿弥が観世座を継いだ翌年、世阿弥は佐渡に流される。義教の勘気に触れての流罪であろうが、前々年に子の元雅に先立たれ、元雅の弟の元能は出家、佐渡からの帰還も不明という不幸な晩年であった。

(3)世阿弥以降の能作者

 

元雅は人間の内面に迫る《隅田川》《弱法師》などの傑作を残し、世阿弥の娘婿の金春禅竹は《定家》《芭蕉》など深い情緒をたたえた能と、『六輪一露之記』ほか仏教哲学などに基づく能楽論を著した。

 

音阿弥の作品は現存しないが、その子である観世信光は《船弁慶》《紅葉狩》など華やかなスペクタクル能を作る。信光の子、観世長俊もこの延長線上に《輪臓》《正尊》ほかを書き、禅竹の孫の金春禅鳳も《嵐山》《一角仙人》など、シテ一人の演技にすべてを集約した世阿弥の能とは対極のものを目指した。

 

応仁の乱と、続く戦国時代によって京都が灰塵に帰し、高い文化を誇る支配層や貴族が没落、一般大衆の支持なくしてはやっていけなくなった室町中・後期の猿楽にとっては、見た目が派手でわかりやすい能を作ることは、必然の選択であったといえる。

 

(4)式楽への道

 

豊臣秀吉は自らをシテとする太閤能を作らせるほどに能に耽溺し、大和四座に俸禄や領地を与え保護、ほかの座を四座のなかに統合する方針を打ち立てた。負けず劣らずの能好きであった徳川家康も秀吉の政策を踏襲、続く秀忠と家光とによって猿楽が江戸幕府の式楽(典礼用の音楽)となる基盤が固まる。

 

身分と地位の安定は役者を芸に専心させる一方、当然、保護者の厳しい監視下に置かれることとなる。シテ方、ワキ方などの専門が定められ、いわゆる家元制度による芸事の統率、習事の整理なども進んだ。演技や技法が高度に発達、洗練を極めると同時に固定化への傾向が強まり、一部の例外を除いて、新しい作品の創造は中断する。

 

現在、シテ方には五流あるが、これは大和四座のほか、もとは金剛に属していた喜多七大夫が秀忠から家光の時代に活躍、特に喜多流を許され、現在にいたったものである。

  







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