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歌舞伎のはじまり

本章では近世日本におけるさまざまな音楽文化の開花について、1500~1650 年、1650~1850年の2つの時期に分けて概観していく。

 

近世の日本音楽におけるもっとも顕著な動きは、歌舞伎・人形浄瑠璃の成立と展開にみることができる。第1の時期は、両者ともに芸能の発芽期であり、第2の時期は発展と様式の確立の時代といえよう。

 

寛永16年(1639)、、3代将軍徳川家光によって断行された鎖国によって、戦国時代に生まれた数々の音楽や芸能は、世界から遮断された環境のなかで日本的に熟成していった。いいかえれば、この時代において初めて、一般的な庶民の感性によって日本の音楽文化が形成されたともいえる。そんななかで歌舞伎も人形浄瑠璃も生まれた、この時代の音楽を知ることによって、日本人の音楽性の特徴の基本的な部分を理解する契機を得られるであろう。

 

1500~1650年

 

近世音楽への序曲は、江戸時代に入る100年前に始まった。1467年に起きた応仁の乱の時代は、諸国に群雄が割拠した時代であった。下剋上で一日にして逆転する政治体制からくる社会不安のなか、武士も庶民も不安定な現実から非現実の世界へと逃避するために踊り騒ぎ、芸能の世界に埋没することが多かった。

 

しかし一方で、中央と地方の諸国との交流が密度を増したこの時代は、中央の芸能が地方へと伝達され、その影響のもとに地方において新たに狐創的な芸能が登場し、芸能の面でも地方から中央へ、つまり下から上へという影響関係の下剋上が起きた時代でもあったといえるだろう。

 

江戸幕府成立翌年に執り行われた、京都豊国神社の豊国祭の様子を描いた絵には、熱狂的に体をくねらせて踊りに興ずる人々の姿が描かれている。ここで人々が熱狂する踊りは、当時大流行した「風流踊り」であった。

 

風流とは、さまざまな意匠を凝らした作り物や仮装を件う趣向のことを指し、14世紀末南北朝の乱の後、各地の村の盆踊りなどに登場した芸能である。そして、風流の作り物を、鉦や太鼓・鼓や笛あるいはササラで囃して送り出し、悪霊を追い払う芸能が行われ、集団舞踊としての風流踊りが始まっていった。踊りの場では、真ん中に作り物をおいて周囲を囲んで囃し、当時の流行歌を歌いながら躍ったという。16世紀末から17世紀の初めに大流行したこの風流踊りは、歌舞伎踊りを生み出す母胎となったのである。現在でも、風流踊りは各地の民俗芸能のなかに、太鼓踊り、花傘踊り、羯鼓踊り、かんこ踊りなどの名前で残っている。

◆歌舞伎のはじまり

 

『慶長日件録』や『時慶喞記』など当時の資科には、慶長年間に宮廷内で公家の若者たちが異風な格好をして奔放な行動を取っていた様子が記されている。異風な格好とは、大脇差をさし、奇抜な服装をして、宮中を大声で歌いながら歩くといったものだった。また宮廷では、当時民間で流行していた<ややこ踊り>なる芸能をみようと、踊り手が招かれたという記録もある。当時の文献では、このような振るまいを不道徳として綱紀粛正を叫んだという記事もみえるから、異類異形の風俗の流行していた状況がよくわかる。

 

この異類異形の風俗が、<かぶきもの>という言葉を生み出した。「傾く」とは「普通でない状態」を意味し、異様な格好をする者を<かぶき者>と呼んだ。そしてその後、この言葉に歌・舞・伎の3つの漢字を当てて<歌舞伎>の呼称が生まれた。

 

<ややこ踊り>とは、「ややこ=童女」の踊りの意味をもつ。初めは文字通り童女による踊りを意味していたが、その後、女子が当時の流行歌である小歌を歌いながら踊る<小歌踊り>などの意味に転じていった。

 

歌舞伎の創始者として有名な出雲の阿国の登場は、慶長8年(1603)。徳川家康が62歳にして征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた年の4月16日、京都四条河原でひとりの巫女が風変わりな踊りを披露したという記述で知られている。

 

『当代記』には次のように書かれている。「この頃、かぶきおどりということが有る。これは、出雲の国の神子女で、名前を国というものが、異風な男のまねをして、刀と脇差しをさして、茶屋の女と戯れるまねをした」しかしながら、その後の研究によれば、阿国は、この年より以前に<ややこ踊り>の名手として知られており、彼女がややこ踊りのなかで、当時宮廷の若者たちに流行っていた異様な姿を真似してみせたことがうけたため、その部分が歌舞伎踊りとして有名になったともいわれる。

 

阿国が踊った<かぶきおどり>の様子は、一般的に1659年の『東海道名所記』の記述でよく知られている。記述を要約すれば、塗り笠に紅の腰蓑をまとい、打楽器の鉦の類を首にかけ、念仏踊りに歌をまぜて、笛鼓に拍子を合わせて踊った、という記述である。首には十字架を下げ、腰に脇差しをさして男装している姿が描かれている当時の絵画資料と考え合わせると、彼女のおおよその姿が浮かび上がってくるだろう。

 

この踊りはややこ踊りのなかの一部であり、舞台はほかの踊りや狂言も取り入れた内容で構成されていたらしい。そして鉦や鼓で拍子を取って踊るこのスタイルが、創始時代の歌舞伎の姿であった。

 

阿国が創始した歌舞伎踊りは、<遊女歌舞伎>とか<女歌舞伎>と呼ばれるようになるが、その後風紀を乱したことを理由に寛永6年(1629)幕府よって禁止された。続いて承応1年(1652)、幕府は女歌舞伎と並行して興行されていた<若衆歌舞伎>の禁止令を出した。若衆歌舞伎とは、まだ前髪のある美少年俳優による歌舞伎だったが、大名や旗本が若衆と男色に耽る事態が起こったためであった。

 

その結果は、歌舞伎芝居興行の停止令にまでおよび、2年近く歌舞伎上演ができない期間が続いたという。このような流れのなかで<野郎歌舞伎>が始まる。野郎とは、前髪を剃り落とした成人男子のことを意味していた。

 

野郎歌舞伎の役者たちも幕府によって居住区を制限されたりさまざまな制約を受けるが、これらの制約を、発想の転換で克服することによって、次の時代には、歌舞伎は演劇的にも音楽的にも、更に舞台芸能としても大きく発展することになった。

 

歌舞伎音楽の代表的な楽器である三味線は、阿国の始めた歌舞伎踊りの時代にはまだ使われていなかった。歌舞伎音楽に三味線が取り入れられるようになったのは、<阿国歌舞伎>の次の時代、17世紀初めの<遊女歌舞伎>のころといわれる。

 

永禄年間(1558~70)に三味線が中国から沖縄を経て日本に伝来してから半世紀を経たころであった。その後の若衆歌舞伎時代(1629~52)の楽器は、三味線、四拍子(能の4種の楽器で笛・小鼓・大鼓・太鼓のこと)、大太鼓、篠笛程度であった。

  




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