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幕末から染み渡る西洋音楽の影響

◆近代日本の音楽文化

 

本章では、近代日本、すなわち1850年から1945年ころまでの約1世紀間の音楽文化を、1.幕末~明治中期(1850~1900年ころ)、2..明治後期~大正・昭和前期(1900~45年ころ)という2つの時期にわけて概観する。

 

幕末から明治・大正・昭和にわたるこの時期に、日本の音楽文化は大きな変貌をとげた。そのもっとも大きな特徴は、異文化である西洋音楽が定着して、江戸時代までに成立していたさまざまな伝統音楽と並んで日本の音楽文化のひとつの柱となったことである。

 

西洋音楽は、芸術音楽として一部の専門家の間にのみ定着したのではなく、社会の変化や生活様式の西欧化とも相まって、広く一般の人々の音楽生活にも入り込み、私たちを取りまく音環境を変えていった。そして、ひいては私たちの基層的な音感覚や、音楽に対する考え方にも影響を与えるものとなったのである。

 

さまざまな伝統音楽にとっても、この1世紀はきわめて変化の多い時代であった。明治維新後、かつて伝統音楽を支えていた諸制度が大きく揺らぎ、社会や生活環境が変わり、西洋音楽が定着するなかで、江戸時代までのレパートリーや伝承方法を変化させ、近代に適応していったのである。その過程で失われたものも多いが、長い年月にわたって育まれてきた独自の音楽伝統が、生きた形で現代まで伝えられた意義はきわめて大きい。

 

一方、芸術音楽としての西洋音楽と伝統音楽とを取りまく近代日本の音環境を考えてみると、大筋ではそれがこの1世紀を通して、伝統音楽に親和的な世界から、西洋音楽の影響の強い世界へと変化してきたといえるだろう。そのなかで、もともとは別世界で発達してきた西洋音楽と伝統音楽とは、互いに他を発見しながらしだいに関係を深めていき、創作の分野ではもはや境界のない戦後の音楽状況へと至るのである。

 

本章では、時期区分ごとに、西洋音楽と伝統音楽それぞれの動きと、その関係のありかたとをみていくことにしたい。その際には、創作だけでなく、演奏や普及状況といった側面も重要になってく る。

第1期 幕末~明治中期
(1850~1900年)

 

◆西洋音楽の受容と定着

 

かつて16~17世紀にキリスト教伝来に伴ってもたらされた西洋音楽(キリシタン音楽)の痕跡は、江戸幕府の鎖国政策により、隠れキリシタンのオラショを除いてほぼ姿を消した。もっとも鎖国期にも、文政3年(1820)の長崎出島のオランダ人によるオペレッタ上演や、文政9年(1826)シーボルトが江戸に持参したピアノ、また蘭学者の宇田川榕庵による西洋音楽用語の研究などの例はあったけれども、海外との自由な往来が禁じられていたため日本の音楽文化そのものに大きな影響を残すことはなかった。

 

人々の外国音楽に対する憧れは強かったが、現実の音楽生活が変わっていくのは、日本が開国する1850年代以後のことである。嘉永6年(1853)に開国を求めて来航したアメリカのペリーとロシアのプチャーチンが率いた軍楽隊は、その大音響で人々を驚かせた。

 

安政2~6年(1855~59)に幕府が長崎で行った海軍伝習にともなって導入された太鼓とラッパの洋式軍楽は、幕末には洋式軍制を採用した諸藩で行われ、実用性を越えて人々の心をとらえた。開国後は、各開港地に設けられた外国人居留地で西洋音楽が奏でられた。

 

文久3~明治8年(1863~75)横浜に駐屯したイギリス・フランス軍は軍楽隊を連れてきた。居留地では、国禁であったキリスト教の布教活動も行われ、外国語の賛美歌や聖歌が歌われた。明治6年(1873)に禁教が解かれる前後から、とくにプロテスタント各派において本格的な布教に備え賛美歌の歌詞の日本語訳が始まった。

 

賛美歌は、西洋音楽と日本語の歌詞の調和という課題の最初の実験場となり、こうして作られた日本語の賛美歌集が明治7年以降数多く発刊された。教会はその後も日本人が西洋音楽に接する重要な窓口のひとつとなった。

 

日本人が専門的に西洋音楽の訓練を始めるのは、明治2年(1869)、中村祐庸以下32名の薩摩藩伝習生が横浜駐屯のイギリス陸軍第10連隊軍楽長フェントンから吹奏楽の伝習を受けたのが最初である。

 

明治4年(1871)には彼らを母体に陸海軍の軍楽隊が発足した。海軍軍楽隊は退役したフェントンを雇い入れてイギリス式軍楽で出発したが、フェントン解雇(明治10年)後の明治12年(1879)ドイツ人教師エッケルトを招いてドイツ式に転じた。陸軍軍楽隊は、明治5年(1872)にフランス人教師ダグロン、ついで明治17年(1884)ルルーを迎えてフランス式の軍楽を学んだ。

 

明治初期にはほかに西洋音楽を演奏できる団体がなかったので、軍楽隊は軍事儀礼だけでなく、西欧風の外交行事や宮中行事、明治5年の鉄道開業式など政府主催の各種式典の演奏も担当し、明治10年ころからは民間からの出張依頼にも応じた。当時の軍楽隊のレパートリーはヨーロッパの軍楽隊と同様で、儀礼曲・行進曲のほか、ワルツ・カドリーユなどの舞踏曲、オペラの序曲・抜粋曲などであった。西洋の管弦楽曲はまず吹奏楽の音で日本に紹介されたのである。

 

明治20年代には、 陸海軍軍楽隊がそれぞれ教育制度を整え、毎年新人を募集して専門教育を行い、水準を高めていった。明治7年(1874)末には、天長節(天皇誕生日)や西欧式饗宴など、宮中行事に取り入れられた欧風行事の西洋音楽を担当させるため、雅楽家である式部寮伶人(のちの宮内省楽部楽師)28名に西洋音楽の兼修が命じられた。

 

伶人は、海軍軍楽隊の中村祐庸とフェントンから吹奏楽の指導をうけ、明治9年(1876)の天長節に初演奏を行った。明治12年(1879)には管弦楽をめざして伶人有志が自主的に弦楽器にとりくみ、同じ年に設置された音楽取調掛の事業にも芝葛鎮・上真行・奧好義ら主要メンバーが教員や伝習人として協力した。鹿鳴館時代の舞踏会を伴奏したのも、陸海軍軍楽隊と式部寮伶人であった。

  




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