グイード・ダレッツォ~11世紀
ベネディクト会の修道士だったグイード・ダレッツォは、イタリア中部にあるポンポーザ修道院にいた頃、聖歌隊のメンバーたちが複雑化した聖歌を正確に暗記することが難しくなってきていると感じていました。
そこでグイード・ダレッツォは、6つの音の記憶を基礎にして視唱を教える方法を編み出します。
また聖歌教育の難しさを熟知していたグイード・ダレッツォは、それまで音の高さを表すのに使われていた赤と黄色の2つの線に、さらに2つの線を加えて四線譜を考案しました。
「グイードの手」と呼ばれるもので、左手の間接ごとに音名が示され、音階の組織を覚えやすくする方法でした。
<グイードの手>
11世紀は、ヨーロッパにとって一つのターニングポイントになりました。西ヨーロッパの地域では、スカンジナビア半島に暮らしていたヴァイキングと呼ばれる人たちもキリスト教への改宗が進み、カトリック教会は安定した力を持つようになりました。
また、農耕や牧畜を中心とした社会が発達し始めます。それは経済の復興を招き人口も増え始め、後にロマネスク建築と呼ばれる聖堂も数多く建てられました。
新しい土地の開墾や移住と共に、そこには教会や聖堂などが建てられるようになり、キリスト教の聖人たちの聖遺物の収集や信仰、聖地への巡礼なども拡大していきました。
その頃、東西分裂以降も存続してきた東ローマ帝国が、トルコ系イスラム王朝のセルジュク朝によって領土の一部が奪われました。
1095年東ローマ帝国の皇帝がローマ教皇のウルバヌス2世に救いを求め、同年11月にフランス中部のクレルモンで行われた教会の公会議で、教皇は集まったフランスの騎士達に、神がアブラハムとその子孫に与えるとした約束の地「カナン」と聖地エルサレムの奪回を呼びかけます。
そこで誕生したのが十字軍で200年近くに及ぶ遠征でしたが、聖地を奪回することはできませんでした。その過程でテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団など、騎士修道会も数多く誕生しています。
十字軍の遠征は、それまで触れることの少なかった東方の文化を西ヨーロッパにもたらし、アラビア語とギリシア語の翻訳も行われ、スコラ学と呼ばれる新しい学問体系も発展していきます。
東方との交流で古代の学問への関心は音楽にも及び、それまで一つの声部で歌われていた旋律に対し、複数の声部で歌われるスタイルの「多声音楽(ポリフォニー)」がフランスを中心に発展していきました。
<サント=マドレーヌ大聖堂(ロマネスク建築)>