ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61 第1楽章【ベートーヴェン】~音楽作品 名曲と代表曲
4大ヴァイオリン協奏曲にも数えられるベートーヴェン中期の名作
『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』Op.61は、1806年に作曲されたヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲で、ベートーヴェンの中期を代表する傑作の一つです。
メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキーの作品と共に「4大ヴァイオリン協奏曲」の一つに数えられることもあり、「ヴァイオリン協奏曲の王者」とも称されています。
この「ヴァイオリン協奏曲」は、『傑作の森』と呼ばれる中期の最も充実した創作期の作品で、ベートーヴェンは創作にあたって、ヴァイオリニストでアン・デア・ウィーン劇場オーケストラのコンサートマスターであったフランツ・クレメントを独奏者に想定し、彼の助言を受け入れながら作曲しています。
現存する自筆譜には、「ウィーン劇場の第1ヴァイオリン奏者で、コンサートマスターのクレメントのために、1806年ベートーヴェンによって無報酬で書かれた協奏曲」と記されています。
この曲のスケッチが1806年から始められていることから、この作品は比較的短期間の間で作曲されたと考えられ、ベートーヴェンはこの作品が完成した時にその草稿をクレメントに捧げていますが、1808年に出版した際は、親友のシュテファン・フォン・ブロイニングに献呈しています。
ベートーヴェンはヴァイオリンと管弦楽のための作品を他に、2曲の小作品「ロマンス」と第1楽章の途中で未完に終わった協奏曲の3曲を残していますが、完成した協奏曲としては本作品の1作となっています。
初演は1806年12月23日、まだこの時点で作曲は完璧な完成には至っていませんでしたが、アン・デア・ウィーン劇場にてフランツ・クレメントの独奏によって行われ、クレメントはほぼ初見でこの難曲を見事に演奏して聴衆の大喝采を浴びました。
しかし、その当時の新聞批評では次のように述べられていました。
「この曲は独創性と多くの美しい旋律を持っており、非常な喝采で迎えられた。…しかしこの曲に対する識者たちの評価は一致している。
つまり若干の美しさはあるものの、時には前後のつながりが全く断ち切られてしまったり、二つ三つの平凡な箇所を果てしなく繰り返すだけですぐに飽きてしまう。
ベートーヴェンがこのような曲を書き続けるならば、聴衆は音楽会に来て疲れて帰るだけである」
この批評後は演奏される機会が少なくなり、次第に楽曲の存在も薄れていき、この曲が今日のような高い評価を受けるまでには40年ほどの時がかかりました。
初演以来40年ほどの間に数回しか演奏されず、1844年に13歳のヨーゼフ・ヨアヒムがこの曲を演奏したことがきっかけとなり、ようやく一般に受け入れられるようになりました。
ヨアヒムはこの作品を最も偉大なヴァイオリン協奏曲と称し、生涯亡くなるまで演奏し続けました。『ヴァイオリン協奏曲の王者』と呼ばれるまで知名度を与えたのは、ヨーゼフ・ヨアヒムの功績であると言えます。
なお、ベートーヴェンは1807年にクレメンティの勧めに従ってこの曲をピアノ協奏曲に編曲しており、ピアノ版(Op.61a)はブロイニングの妻ユーリエに献呈されています。
ベートーヴェンは、「原曲」のヴァイオリン協奏曲にはカデンツァを書きませんでしたが、このピアノ協奏曲には入念なカデンツァを取り入れています。
この作品は同時期の「交響曲第4番」や「ピアノ協奏曲第4番」にも通ずる叙情豊かな作品で、この伸びやかな表情が印象的な作品の背景には、ベートーヴェンが当時恋をしていた、ヨゼフィーネ・フォン・ダイム伯爵未亡人との恋愛が影響しているとも言われています。