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交響曲第3番 変ホ長調 Op.97 「ライン」 第2楽章【シューマン】~音楽作品 名曲と代表曲

 

 

躍動感とダイナミズムが溢れるシューマン最後の交響曲

 

シューマンは1847年5月に長男を失い、同年11月に盟友であったフェリックス・メンデルスゾーンの死によって精神的にダメージを受けました。

 

しかし、フェルディナント・ヒラーの後任としてドレスデンの男声合唱団の指揮をすることになり、シューマンはこれを混声合唱団に拡大するなどして力を注ぎ活動しました。

 

1849年5月にドレスデンで革命蜂起が起き、シューマンは心情的には自由主義の立場にありましたが、精神障害や家族の安全のこともあってマクセンに避難します。この間に革命的な音楽や行進曲の作曲、ピアノ曲集『森の情景』を完成させています。

 

40歳になるシューマンは翌年の1850年に再びヒラーの後任として、デュッセルドルフの管弦楽団・合唱団の音楽監督に招かれることになり、9月に同地に到着したシューマン夫妻は盛大な歓迎を受けました。

 

デュッセルドルフは新興の工業都市として栄えていて、活気に満ちた街や人々、そして美しい自然はシューマンの創作意欲を掻き立てました。

 

シューマンはライン川沿岸を好んで散歩し、ライン川上流に位置するケルンにも足を延ばし、壮麗なケルン大聖堂に感銘を受けたといいます。

 

折しもこの時期に挙行されたケルン大司教ヨハネス・フォン・ガイセルの枢機卿就任式の報に接し、交響曲の霊感を得たといいます。

 

シューマンは同年11月にチェロ協奏曲を完成させ、直ちに交響曲の作曲に取り掛かると12月には書き上げ、交響曲第3番変ホ長調「ライン」を僅か1ヶ月で完成させました。

 

シューマンはライン川を取り巻く環境に大いに触発され、その影響は音楽にも直結していて、第1楽章(ローレライ)、第2楽章(コブレンツからボン)、第3楽章(ボンからケルン)、第4楽章(ケルンの大聖堂)、第5楽章(デュッセルドルフのカーニヴァル)と関係が深くなっています。

 

 

 
  




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