「スラヴ舞曲」 第2集 Op.72 第2番【ドヴォルザーク】~音楽作品 名曲と代表曲
単独で演奏されることも多い有名曲
スラヴ舞曲集は、元々はピアノ連弾のために作曲され出版されていますが、管弦楽用もドヴォルザーク自身によって全曲が編曲され出版されています。各8曲からなる第1集Op.46(B83)と第2集Op.72(B147)があります。
1875年ドヴォルザーク(34歳)は、オーストリア帝国政府の奨学金の審査で提出作品が認められ、以後その支給を受けて乏しい収入を補っていました。
その審査員の中にはハンスリックやブラームスがおり、特にブラームスはドヴォルザークの才能を高く評価し、ジムロック(出版社)にドヴォルザークを紹介し、以後も生涯に渡ってドヴォルザークを支援しました。
当時ブラームスは40歳代半ばで、ドイツ音楽界に確固たる地盤を築き上げた頃でした。ボヘミア色を濃厚に漂わせながらも、ドイツ音楽的要素をしっかりと身につけたドヴォルザークの音楽を大いに評価していました。
少し以前にブラームスの『ハンガリー舞曲集』をヒットさせたジムロック社は、ドヴォルザークにもこうした舞曲集の作曲を依頼しました。
ドヴォルザーク(37歳)はそれに応えて1878年3月から5月にかけて作曲し、8曲からなる『スラヴ舞曲集』(第1集)Op.46を完成させました。
第1集ではボヘミアの代表的な舞曲であるフリアント、ソウセツカー、スコチナーなどが取り上げられていて、ドヴォルザークは民族舞曲のリズムや特徴を生かしながら、独自の旋律で作曲しています。
この『スラヴ舞曲集』はブラームスの『ハンガリー舞曲集』に劣らないほどヒットし、作曲家ドヴォルザークの存在は、にわかに広くヨーロッパ中で注目されるようになっていきました。
『スラヴ舞曲集』は、元々家庭内で誰もが楽しめるようにと、『ハンガリー舞曲集』と同様にピアノ連弾用に書かれていましたが、人気の高さもありドヴォルザーク自身によって全曲が管弦楽編曲されました。
こちらも同年のうちに出版され、たちまち世界中のオーケストラのレパートリーとなりました。管弦楽版(第1番・第3番・第4番)の初演は、1878年5月にプラハでアドルフ・チェフの指揮により行われました。
第1集が成功したのを受け、ジムロック社は次なる舞曲集の作曲を早々にドヴォルザークに要望していましたが、ドヴォルザークはすでに作曲家としての名声を確立し、次々と大作を手掛けていました。
前作を凌ぐ作品を書き上げることに消極的ではありましたが、8年の時を経た1886年6月に創作意欲が湧き、1ヶ月でピアノ連弾版の全8曲を完成させました。
これが『スラヴ舞曲集』第2集Op.72として同年に刊行され、前作に劣らないほどの好評となりました。前作と同様に管弦楽編曲も同年11月から翌1887年1月にかけて行われ、同年に出版されました。
この結果、ドヴォルザークの『スラヴ舞曲集』は全2集の計16曲となり、共にピアノ連弾用とオーケストラ用の版を備えることとなりました。その他にも曲によってピアノ用、ヴァイオリン用、チェロ用の編曲版もあります。
管弦楽版(第1番・第2番・第7番)の初演は、1887年1月にプラハでドヴォルザーク自身の指揮により行われました。
第2集ではチェコの舞曲は少数に留まり、他のスラヴ地域の舞曲を取り入れているのが特色で、特に第2番は第1集からの通し番号「スラヴ舞曲第10番」として、単独で演奏されることも多い有名曲で、様々な場面で取り上げられています。