浄瑠璃と筝曲の展開
日本の代表的な伝統芸能の一つの人形浄瑠璃は、別名<文楽>とも呼ばれます。その音楽様式の特徴は、三味線伴奏の物語音楽であり、この音楽を義太夫節と呼んでいます。
浄瑠璃の始まりと人形浄瑠璃の成立
<浄瑠璃>の言葉は、浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語を扱った物語が人気を博しことに名前の由来がありますが、歌舞伎踊りの始まりと時を同じくして、享禄4年(1530)ころに音楽史に登場します。
しかし、当時は三味線伝来前であり、扇の骨の部分を指で弾いて、リズム楽器として拍子を取る扇拍子を伴奏に語られていました。
浄瑠璃は伝来した三味線を取り入れることによって、様々な性質の音楽を生み出していきました。この時代、浄瑠璃史に残る主な演奏家として杉山丹後掾と薩摩浄雲の2人がいます。
一方、中国より伝来した<散楽>の芸能の中に、人形を操る芸能で<傀儡まわし>や<傀儡子>と呼ばれたものがありました。この芸能は、奈良・平安朝の貴族達から支持されて、寺院の法会の余興として行われていました。
この<傀儡子>の芸能と、平家琵琶や謡曲などの流れを受け継ぐ浄瑠璃が一緒になって、人形芝居を三味線伴奏の物語音楽で進める<人形浄瑠璃>が成立したのです。
人形浄瑠璃は江戸時代の庶民の人気を得て、江戸、京都、大坂の3大都市で発展し、17世紀中頃には江戸の人形芝居小屋が5~6座になったといいます。
人形浄瑠璃のことを現在、<文楽>と呼ぶことが多いですが、この名称は文化2年(1805)大坂に芝居小屋を作った植村文楽軒に由来しています。
そのような流れの中に、天才的な美声の語り手が現れました。それが後の竹本義太夫となる若者でした。義太夫は、大坂の天王寺村に住む若い農夫で名を五郎兵衛といいました。
彼は、当時一世を風靡していた2人の師匠の硬軟対照的な芸風を取り入れ、また当時流行していた様々な浄瑠璃の様式を取り入れて、独自の様式を確立しました。
また、台本作者の近松門左衛門との出会いによって、人形浄瑠璃は江戸期を代表する物語音楽となったのであります。義太夫の作った音楽(義太夫節)の人気があまりにも高かったため、それまでの浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれて、前の時代の浄瑠璃として区別されるようになりました。
箏曲のはじまり
歌舞伎や人形浄瑠璃のように、観客を前にした劇場音楽の発展とは異なり、家庭音楽とでも言えるような、雅楽を源流とする楽器の音楽の新しい展開がこの時代に始まっています。
九州久留米の寺の僧である賢順は、音楽の才能に恵まれた僧でありました。彼は雅楽の楽器をよく学び、箏にも馴染んでいたと言います。
そして、雅楽の楽器奏法習得のために、管楽器の旋律をタ行やラ行のカタカナで歌っていた<唱歌>に、カタカナではなく歌詞をつけて箏の作品を作りました。当時、雅楽の唱歌の旋律に言葉を付けて、歌いながら箏を弾くことが盛んに行われていたといいます。
これは箏や琵琶が雅楽の中でリズムや拍子を担当する楽器でしたので、演奏する場合に管楽器の唱歌を歌いながら演奏していたため、その管楽器のメロディーが歌となったものと考えられています。
賢順は、管絃《越天楽》の唱歌の旋律に「ふきといふも草の名、みゃうがといふも草の名」と歌い出す歌詞をつけました。
賢順の始めた箏曲は、筑紫流箏曲と呼ばれ、この作品《菜蕗》は意味の関連のない歌を数首組み合わせて一曲とする<箏組歌>のもととなりました。そしてこの<箏組歌>が箏曲の始まりと言われています。
八橋検校と箏曲の展開
賢順の弟子に学んだ八橋検校は、当道という盲人音楽家組織に属しましたが、一般への普及を目指し筝曲発展の礎を築きました。
筝の奈良時代からの楽器の構造は変えずに、楽器をどう響かすかを工夫し、調律法や奏法を改めて、独奏楽器としての性格を明瞭にした点が画期的であります。
《六段(の調べ)》《八段》《みだれ》は、日本の器楽曲として高い評価を得ています。一方で歌との親和性を高めたのも、近世の筝曲になってからの著しい変化と言えます。