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浄瑠璃と筝曲の展開

◆浄瑠璃の始まりと人形浄瑠璃の成立

 

日本の代表的な伝統芸能のひとつ、人形浄瑠璃は、別名<文楽>とも呼ばれる。その音楽様式の特徴は、三味線伴奏の物語音楽であり、この音楽を義太夫節と呼んでいる。

 

<浄瑠璃>の言葉は、浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語を扱った物語が人気を博しことに名前の由来があるが、歌舞伎踊りの始まりと時を同じくして、享禄4年(1530)ころに音楽史に登場する。

 

しかし当時は三味線伝来前であり、扇の骨の部分を指で弾いてリズム楽器として拍子を取る扇拍子を伴奏に語られていた。

 

浄瑠璃は伝来した三味線を取り入れることによって、さまざまな性質の音楽を生み出していった。この時代、浄瑠璃史に残るおもな演奏家として杉山丹後掾と薩摩浄雲の2人がいる。

 

一方、中国より伝来した<散楽>の芸能のなかに、人形を操る芸能で<傀儡まわし>とか<傀儡子>と呼ばれたものがあった。この芸能は、奈良・平安朝の貴族たちから支持されて、寺院の法会の余興として行われていた。

 

この<傀儡子>の芸能と、平家琵琶や謡曲などの流れを受け継ぐ浄瑠璃が一緒になって、人形芝居を三味線伴奏の物語音楽で進める<人形浄瑠璃>が成立したのである。

 

人形浄瑠璃は江戸時代の庶民の人気を得て、江戸、京都、大坂の3大都市で発展し、17世紀中ごろには江戸の人形芝居小屋が5~6座になったという。人形浄瑠璃のことを現在<文楽>と呼ぶことが多い。この名称は文化2年(1805)大坂に芝居小屋を作った植村文楽軒に由来している。

 

 

そのような流れのなかに、天才的な美声の語り手が現れた。それが後の竹本義太夫となる若者だった。義太夫は、大坂の天王寺村に住む若い農夫で名を五郎兵衛といった。彼は、当時一世を風靡していた2人の師匠の硬軟対照的な芸風を取り入れ、また当時流行していたさまざまな浄瑠璃の様式を取り入れて、独自の様式を確立した。

 

また台本作者の近松門左衛門との出会いによって、人形浄瑠璃は江戸期を代表する物語音楽となったのである。義太夫の作った音楽(義太夫節)の人気があまりにも高かったため、それまでの浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれて、前の時代の浄瑠璃として区別されるようになった。

◆箏曲のはじまり

 

歌舞伎や人形浄瑠璃のように観客を前にした劇場音楽の発展とは異なり、家庭音楽とでもいえるような、雅楽を源流とする楽器の音楽の新しい展開がこの時代に始まっている。

 

九州久留米の寺の僧、賢順は、音楽の才能に恵まれた僧であった。彼は雅楽の楽器をよく学び、箏にも馴染んでいたという。そして、雅楽の楽器奏法習得のために管楽器の旋律をタ行やラ行のカタカナで歌っていた<唱歌>に、カタカナではなく歌詞をつけて箏の作品を作った。

 

当時、雅楽の唱歌の旋律に言葉をつけて歌いながら箏を弾くことが盛んに行われていたという。これは箏や琵琶が雅楽のなかでリズムや拍子を担当する楽器だったので、演奏する場合に管楽器の唱歌を歌いながら演奏していたため、その管楽器のメロディーが歌となったものと考えられる。

 

賢順は、管絃《越天楽》の唱歌の旋律に「ふきといふも草の名、みゃうがといふも草の名」と歌い出す歌詞をつけた。賢順の始めた箏曲は筑紫流箏曲と呼ばれ、この作品《菜蕗》は、意味の関連のない歌を数首組み合わせて一曲とする<箏組歌>のもととなった。そしてこの<箏組歌>が、箏曲の始まりといわれている。

 

◆八橋検校と箏曲の展開

 

賢順の弟子に学んだ八橋検校は、当道という盲人音楽家組織に属したが、一般への普及をめざし、筝曲発展の礎を築いた。筝の奈良時代からの楽器の構造は変えずに、楽器をどう響かすかを工夫し、調律法や奏法を改めて、独奏楽器としての性格を明瞭にした点が画期的である。

 

《六段(の調べ)》《八段》《みだれ》は、日本の器楽曲として高い評価を得ている。一方で歌との親和性を高めたのも、近世の筝曲になってからの著しい変化といえる。

  





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