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伝統音楽の変貌と最終段階

◆伝統音楽の変化と交流

 

明治維新後には、それまで音楽伝承の専有を保証していたさまざまな制度が改廃され、伝統音楽の世界にも大きな変化がもたらされた。それは一面では伝承者の特権を奪い混乱を引きおこしたものの、結果的に各種目を隔てていた身分社会や地域の壁を取り払って種目や流派間の交流を促し、伝統音楽を狭い世界から解き放つ契機にもなったことを見逃してはならない。

 

こうした傾向は、たとえば能を歌舞伎化した《勧進帳》(1840)の成立や、各種目の享受層の広がりという形ですでに幕末から始まっていたが、明治維新後の制度改廃はその動きを加速させた。

 

まず、それまで武家の式楽として幕府や諸大名に保護されてきた能楽はもっとも直接に打撃を受け、明治維新直後は演能はほとんど行われず、扶持を離れた能楽師の生活は窮迫した。廃業・転業が相次ぎ、ワキ方・狂言方・囃子方ではこの時期に廃絶した流派も少なくない。

 

しかし、明治初年に欧米を視察した岩倉具視がオペラに匹敵する自国の歌舞劇として能楽に注目したことから、岩倉ら新政府高官と宮中とを後ろ楯にしだいに能楽は復活していった。明治11年(1878)には皇太后のために青山御所内に能舞台がつくられ、14年には岩倉が発起人となって芝公園紅葉山に能楽社が結成された。

 

江戸時代は武士以外には見物が許されなかった能楽が一般人にも解放された結果、能を歌舞伎化した《土蜘》(明治14年)、《船弁慶》(明治18年)などの松羽目物も多数生まれた。また大名の庇護を離れた地方在住の能楽師・狂言師が上京し、やがて東京ではさまざまな芸系の能狂言が交錯するようになる。

 

雅楽の世界に目を転じると、明治3年(1870)に太政官内に雅楽局が設置され、江戸時代には京都・奈良・大坂で宮廷と寺社を拠点に活動してきた楽人は明治新政府の伶人となり、約半数が東京へ移住を命じられた。同時に、家伝・秘曲など雅楽伝承上の専有の慣習が廃止され、従来は主に堂上公家が行ってきた催馬楽・朗詠や琵琶・箏の伝承も伶人に委ねられた。

 

明治6年には神楽の伝習が人民一般に許可された。また、新時代の雅楽の規範とすべく、それまでの三方の異なる伝承を整理統合し継承すべき全レパートリーを収めた『明治撰定譜』(明治9年・21 年)が撰定された。

 

明治4年( 1871)には、当道(盲人の特権的職能団体)が廃止され、これまで平家と地歌箏曲を専有してきた盲人音楽家の特権が奪われた。直後には混乱がおこり、平家は需要を失って衰退したが、地歌箏曲は家庭音楽として普及することで次第に立ち直り、そのなかで芝居や遊里の遊蕩気分と無縁な箏が前面に出されるようになった。

 

明治8年( 1875)には大阪で地歌業仲間(明治38年当道音楽会と改称)が結成され、菊高検校の《御国の誉》、菊塚与市の《明治松竹梅》(明治35 年)、楯山登の《時鳥の曲》(明治39年) など、詞章・調弦に工夫をこらした箏の高低二部合奏形式の明治新曲がさかんに作られた。東京では、山田流の山勢松韻が音楽取調掛に出仕して俗曲改良運動や五線譜による「箏曲集』の発刊に協力した。また、明治期には九州や関西から地歌箏曲家が上京し、関西の生田流、関東の山田流という地域割がくずれ、流派をこえた交流も生じた。

 

明治4年には普化宗も廃止され、法器として虚無僧の専有物であった尺八は一般人にも吹奏できる楽器となった。琴古流の2代荒木古童は、尺八音楽の立て直しのため普化宗に由来する本曲よりも箏・三味線との三曲合奏を重視し、門人の上原虚洞 (六四郎) が工夫した点符式楽譜を採用して学習を容易にし、家庭音楽としての尺八の普及に努めた。

 

さらに明治29年 ( 1896) には、大阪の中尾都山が都山流を立て、五線譜にヒントを得た独自の楽譜と合理的な運営法によって流勢を伸ばし、《慷月調》(明治36年)、《岩清水》(明治37年)など自派の本曲となる尺八独奏曲を作曲して、琴古流と並ぶ大流派となった。尺八は、 こうして明治期に胡弓に代わって三曲合奏に進出し、大正期から昭和期にかけて急速に伝統音楽界に勢力を拡大した。

なお、民謡や詩吟の尺八伴奏も明治末ごろから始まった。以上みてきたように、幕府や宮廷の保護下にあった能楽と雅楽、また江戸時代に音楽伝承上の特権を認められていた地歌箏曲と尺八音楽の世界は、明治維新後に経験した大きな変動を乗り越えることで、新しい時代に適応していった。

 

これに対して、民間で興行される歌舞伎や人形浄瑠璃と結びついて発達してきた長唄、常磐津・清元、義太夫などの劇場音楽は、明治維新によって負の影響を受けず、むしろ劇場に対する規制緩和がプラスに働き、江戸時代から続いてきた音楽的発展の最終段階を明治期に迎えたといえよう。

 

長唄では、3世杵屋勘五郎の《綱館》(明治2年)、2世杵屋勝三郎が三味線入りの能(吾妻能狂言)のために作曲した《船弁慶》《安達ヶ原》(ともに明治3年)、3世杵屋正次郎の《元禄花見踊》 (明治11年)、常磐津では《釣女》(明治16 年)、《戻橋》(明治23年)、清元では《三千歳》(明治14年)、義太夫では2代豊沢団平の《壺坂霊験記》(明治12年初演、20年改修)など、今日でもしばしば演奏される曲が明治期に入ってから作られ、各界に名人が輩出した。

 

明治5年の演劇取締令に象徴される歌舞伎の風紀改良・品位向上の要請、また明治10年代の市川団十郎の活歴など演劇サイドからの試みは、劇場音楽の詞章の改訂を促したが、音楽面での新しい展開には直ちに結びつかなかった。ただし、この時期の歌舞伎界の高尚趣味は、これらの音楽にも語り口の洗練などを要請し、とくに清元は5世延寿太夫が発声法を変え語り口を品よくしたことで音楽的な面目を一新したといわれ、《隅田川》(明治16年)などの新作も生まれた。

 

幕末から庶民の音楽の新しい場となった寄席は、明治維新後もさらに数をふやし、明治期を通じて俗謡・娘義太夫などがさかんに行われた。明治後期からは、薩摩琵琶・筑前琵琶・浪花節(浪曲)など近代に入って芸能化した新しい語り物が庶民の人気をさらった。

 

薩摩人の上京によって東京から全国に広まった薩摩琵琶、筑前盲僧琵琶に薩摩琵琶や三味線音楽の手法をとりいれて成立した筑前琵琶、祭文・チョボクレといった江戸時代の大道芸・門付芸から発した浪花節は、いずれも地域的あるいは民俗的な芸能をもとに、近代の民衆の求める新しい表現を具体化したものといえよう。

  





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