明治中期に至るまでの音楽教育
明治時期の学校教育の中での音楽の取扱いは難問で、明治5年(1872)に公布された学制において、小学校の<唱歌>と中学校の<奏楽>は共に「当分之ヲ欠ク」とされました。
音楽教育の概況
文部省はアメリカの音楽教育関係書を収集するなどの準備を進めましたが、明治8年に師範教育取調のためアメリカ留学を命じられた伊沢修二は、留学生監督の目賀田種太郎と協力してボストンの音楽教育家メーソンと接触しました。
唱歌教育開始に向けた具体的準備をはじめ、明治12年(1879)に文部省は、唱歌教育実施のための調査研究機関として、音楽取調掛を設置し伊沢修二をその長としました。
1.東西二洋の音楽を折衷して新曲を作ること
2 .将来国楽を興すべき人物を養成すること
3 .諸学校に音楽を実施すること
音楽取調掛はこの3つを掲げて、そのための東西音楽の研究と人材養成を図り、明治13~15年にはアメリカからメーソンを招いて、唱歌教材の作成とその指導法、及びその基礎となる和声・音楽理論などの指導を仰ぎました。
これ以前にも、例えば東京女子師範学校付属幼稚園では、伶人が作曲した保育唱歌によって明治10年から唱歌教育が試みられていましたが、音楽取調掛の設置によって、メーソン方式に範をとった唱歌教育を全国に実施する道が開かれました。
音楽取調掛では、唱歌教材の作成以外に伝習人の教育、音楽用語の翻訳、伝統音楽の調査研究、俗曲(箏曲と長唄) の改良事業などを並行して行いました。
その成果は『小学唱歌集』初篇~第3篇(明治15~17年)、『楽典』(明治16年)、『音楽取調掛成績申報書』(明治17年成立、24年刊)、五線譜による『箏曲集』(明治21年) などとして刊行されました。
明治20年(1887)、音楽取調掛は東京音楽学校と改称し(明治26~32年は東京高等師範学校付属音楽学校に格下げ)、22年には予科(1年)と本科(専修部は3年、師範部は2年)を設置しました。
メーソン解雇後の外国人教師としては、明治19~22年(1886~89)オランダ人ソーブレー、21~27年(1888~94)オーストリア人ディトリッヒが雇われ、音楽の専門教育を充実させていきました。
明治22~28年(1889~95)には、第1回卒業生の幸田延が初めてボストン、ウィーン他に留学しました。
西洋音楽の普及状況
音楽取調掛/東京音楽学校では、養成された音楽教員によって、西洋音楽に基礎を置く唱歌教育が次第に軌道に乗るようになっていきました。
しかし、毎年十数名程度の卒業生では全国の需要はまかない切れず、小学校教員に唱歌とオルガンを速成伝習する、私設の唱歌講習所が明治18年(1885)から続々と開かれていきました。
唱歌教育に必要なオルガンの試作は、明治13年(1880)に西川虎吉が始めましたが、その後に着手した山葉寅楠(山葉オルガンの創始者)が、明治22年に山葉風琴製造所を設立し量産体制を敷きました。
明治26年(1893)には、《君が代》以下8曲のく祝日大祭日唱歌〉が制定公布され、祝日大祭日に学校でこれらの儀式唱歌を歌わせる必要から、唱歌教育がさらに推進されることとなりました。
唱歌教材には翻訳唱歌中心の『小学唱歌集』の後、明治20年代に民間から新作曲を増やした『明治唱歌』『小学唱歌』などが刊行され、明治30年代になると田村虎蔵らが主唱する言文一致唱歌が全国に流行しました。
これに対抗して文部省は、明治43~44年(1910~11)全曲を新作した『尋常小学読本唱歌』『尋常小学唱歌』を刊行し、増補改訂されながら戦前まで使用されました。
学校教育以外では、軍楽隊・式部寮・音楽学校がそれぞれ明治10年代から公開演奏会を行っていましたが、それらの関係者が合同して明治20年(1887)に結成した日本音楽会と明治31年(1898)結成の明治音楽会が、定期的に演奏会を開いて西洋音楽の普及に努めました。
日露戦争後の明治38年(1905)から日比谷公園で毎週行われた陸海軍楽隊による野外演奏も、一般への西洋音楽の普及に貢献しました。また、明治19年に軍楽隊の退役者によって初めて結成された市中音楽隊も活躍しました。
明治27~28年(1894~95)の日清戦争前後には、軍歌が大流行して学校でも歌われ、ヨナ抜き音階とピョンコ節によって、それまで馴染みの薄かった西洋音楽風のメロディーやリズムを一般庶民にも広めることとなりました。
この時期までに西洋音楽は、軍楽隊・式部寮・音楽学校といった専門機関を拠点に定着する一方、唱歌や軍歌などを通じて少しずつ一般の人々の生活にも浸透していきました。
ですが、唱歌や軍歌を別にすると、西洋音楽の手法による本格的な芸術音楽の創作活動は、まだ行われずにいて次期の課題となりました。