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三味線に追随 筝曲と尺八音楽

◆三味線の伝来と楽器の特徴

 

近世の音楽文化を代表する楽器となった三味線は、中国の三弦(元の時代にこの名称となった)が琉球を経て16世紀末に日本に伝わった楽器である。その呼び方も、現在の沖縄では<三線(さんしん)>(<蛇皮線>とは呼ばない)、地歌では<三絃(さんげん)>と呼ぶ。中国・沖縄・日本それぞれの三味線の音色は、撥のあるなしと、皮の素材によって互いに異なる。

 

中国の三弦は撥を使わずに爪で弾き、皮が蛇皮である。沖縄の三線は、水牛の角で作った大きな爪を右手人差し指にはめて演奏し、皮は蛇皮である。しかし、三味線や三絃は木や鼈甲や象牙でできた撥を右手にもって演奏し、革は犬や猫の革をなめしたものを使う。

 

撥の大きさはジャンルの種類によってまちまちである。三味線だけが撥を使う理由としては、初めに三味線を演奏したのが琵琶を演奏した盲僧で、彼らが琵琶を撥で弾いていたためといわれている。

 

また三線や三弦と異なる音色は、三味線の方がさまざまな倍音を出す仕組みになっているためである。そしてこの仕組みのことを、<サワリ>と呼んでいる。サワリは、図のように、三味線の3本の弦をのうち、2本が棹の上部に取り付けた駒に乗っているが、一番太い弦が、弦を弾いたときに棹に直接当たる仕組みのことである。

 

弦が当たる部分の棹は、山型に削られていて、弦はこの項点の山型の所に当たったり、棹の表面に当たったりする。そして当たり方によって振動する弦の長さが変化するためにいろいろな高さの音が同時に出ることになって、複雑な音を出すようになる。

 

この仕組みのことをサワリと呼ぶのである。この機構によって、三味線の音はブーンとかビーンという響きとなる。<サワリ>の呼称はまた、<聞きどころ>、言い換えれば今でいう歌の<サビ>の意味にも使われるようになった。

 

三味線は、演奏する曲種によっていくつか種類がある。大きく分けて棹の細い細棹と、太い太棹であるが、その中間的な中棹もある。細棹は長唄や小唄に、中棹は常磐津や清元に、そして太棹は義太夫や津軽三味線に使われている。棹が太いほど胴も大きく、また駒の高さや素材、撥の厚さや素材、糸の太さが異なるので、同じ三味線でも音色が大きく異なってくる。

◆地歌と箏曲

 

さて、 この時代、箏曲の発展に貢献したのは、盲人の検校たちであった。彼らは平曲を語り、三味線を演奏し、そして箏を弾いた。彼らの演奏した三味線音楽は、関西のその土地の歌を意味して、あるいは舞の伴奏となる音楽の意味で<地歌(地唄)>と呼ばれ、箏・胡弓あるいは尺八との合奏を行うこともあった。この合奏のことを<三曲>と呼ぶ。筝曲は、はじめのころ三味線曲を筝に応用することが多かった。現在筝曲に関わる用語に<地歌筝曲>の用語があるが、これは原曲が地歌の作品だった筝曲のことを意味している。

 

師匠の北島検校から八橋検校の組歌や段物を学んだ生田検校は、17世紀末に京都で生田流箏曲を始めた。彼は平曲も専門としていた。生田検校の代表作品といわれているものには、《思川》《四季源氏》《十二段すががき》などがある。

 

地歌と箏曲は互いに演目を共有したが、18世紀に入ると、歌と歌の間に手事と呼ばれるまとまった器楽部分を挟む形式が生まれた。京都の八重崎検校は、地歌に既存の、三味線旋律に箏の替手を合わせて手事の部分を充実させた作品を多数残した。替手式箏曲とも呼ばれるこれらの作品は現在の生田流の演目の多数を占めている。

 

また宝歴(1751~63)のころ江戸では山田検校が、箏曲山田流を興した。山田検校は尾張藩の宝生流能楽師の息子で、謡曲や河東節などの歌唱様式を取り入れて、天明・寛政年間(1781~1801)に生田流とは異なった、歌を重視した新様式の箏曲の基礎を確立した。山田検校の代表作品には《初音の曲》《小督の曲》《葵の上》などがある。

 

生田流が地歌を基盤とした「手事物」に代表される器楽的な部分を拡大させたのに対して、 山田流は筝浄瑠璃の異称をもつほど、物語性を重視した声楽本位の
発達を遂げ、 関東に支持者を増やした。当時の箏曲は武士の娘や武家屋敷へ奉公する女子の教養として学ばれていた。

 

江戸時代の一般庶民にとっては、むしろ三味線音楽の方がポピュラーな音楽であって、筝曲は必ずしも身近な音楽とはいえなかったようだ。明治時代の芸人調査の数字をみると、明治6年には常磐津節・清元などの浄瑠璃が1,107人、長唄が302人の数に上っている一方、箏曲はわずか12人という数字が出ている。

 

ところが明治41年の調査でこの数は大きく逆転する。箏曲は340人に急激に数を増やし、浄瑠璃は5割近くまでその数を減らすのである。江戸時代には、教養のための音楽として展開してきた箏曲であるが、幕末になると新たな箏曲の創造的運動が起きた。

 

そこに登場するのは光崎検校と吉沢検校である。彼らは、それまで三味線に追髄する形だった箏曲の音楽に、箏本来の独自性をもたせるべく器楽的な作品を書いた。代表曲に、光崎検校の箏の二重奏曲《五段砧》や《秋風の曲》、吉沢検校の《千鳥の曲》《春の曲》などがある。筝においても、多くの器楽的な作品の登場は江戸時代末を待たねばならなかった。

 

◆尺八音楽

 

江戸時代の尺八は、仏教の褝宗の一派である普化宗の僧の修行のための法器(宗教の道具)であった。尺八を吹く普化宗の有髪の僧<虚無僧>が、禅の修行に大事な息を鍛練する道具としての楽器であったとともに、竹の根の部分を下部にもつ姿は、いざという時の武器の役割をも果たしたという。

 

普化宗について詳しく調査した中塚行禅によれば、普化宗の成立は1670年代という。当時尺八の吹奏は法会のなかなど宗教的な状況下で用いられることに限られ、曲の様式も自由リズムの瞑想的なスタイルの作品(本曲)の独奏だった。

 

そのような時代に、筑前の黒田藩主の子であった黒沢琴古は、虚無僧寺の伝承曲を収集整理し、楽器の改良も行い、宗教を離れて一般人が尺八を学習する機会を作った。これが琴古流の始まりである。

 

しかし、尺八が娯楽のための楽器となり筝や三味線との三曲合奏がさかんになったのは明治維新を過ぎてからで、当時の諸制度改革によって廃止された普化宗の法器である尺八が、生き残りをかけた活動の結果であった。

 

琴古流の古典本曲のおもな作品には、秋の鹿の鳴き声を模倣した《鹿の遠音》、巣篭りする時の鶴の羽音を模倣した《巣鶴鈴慕》などがある。

  




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