明治後期以後の西洋音楽の普及と創作活動
19世紀から20世紀にさしかかる頃、日本の西洋音楽は新たな転機を迎えました。西洋音楽を本格的に受容し始めて約30年が経ち、当初の目的であった儀式での奏楽や唱歌教育という実用的な課題がほば達成されました。より多彩で芸術的な音楽を求める社会的機運を生じると共に、担い手側の力量がそれに応えるだけの水準に達しつつあったのであります。
西洋音楽の普及
端的な表われの1つが、この頃から始まる西洋音楽の芸術的な創作活動でありました。滝廉太郎が《花》を含む組歌《四季》を作曲した明治33年(1900)は、その画期となった年でもあります。
明治32年( 1899)、東京高等師範学校から独立した東京音楽学校は、教員養成から音楽家養成へと重点を移し、翌33年には研究科(本科卒業後に進学)に声楽部・器楽部に加えて作歌部・作曲部を置きました。
創作に関わる専攻が設置された初めであり、和声学と作曲はフランス人神父ペーリが担当しました。また、ケーベルやハイドリヒ、ショルツ(ピアノ)、ユンケルとクローン(ヴァイオリン)、ペツォルド夫人(声楽)ら演奏経験の豊富な外国人教師の採用により、演奏水準がさらに向上しました。
海外留学生や優れた外国人演奏家の来日もこの時期以降に増え、日本人音楽家はヨーロッパの同時代音楽と直接に対峙し、その吸収に努めると共に、自らの音楽的独自性にも目を向け始めます。
西洋音楽の専門教育機関は、官立の東京音楽学校が唯一でありましたが、明治37年の女子音楽学校を皮切りに、大正・昭和期にかけて私立の音楽学校が次々と設立されることになりました。
音楽学校とは別に、独自の専門教育を行っていた陸海軍軍楽隊でも、明治41年( 1908)から管弦楽を採用し、特に海軍軍楽隊は毎年東京音楽学校に依託生を派遣し、同校での管弦楽演奏にも管楽器奏者として参加しました。
明治34年からドボラヴィッチに管弦楽の指導を仰いでいた宮内省楽部でも、大正3年( 1914)に7年制の雅楽と、西洋音楽の専門教育制度を整えました。
大正期から様々な部門で活発になる管弦楽運動は、こうした各機関の専門教育の拡充にも支えられ、やがて大正15年( 1926)の常設オーケストラ・新交響楽団設立へと向かうことになります。
展開と創作活動
大がかりな音楽劇上演の試みも明治30年代に始まりました。明治36年( 1903)には東京音楽学校で、学内外の協力を得た初のオペラ上演(グルック作《オルフォイス》)が行われました。
この他、北村季晴作詞作曲《露営の夢》( 1905)、小松耕輔作詞作曲《羽衣》( 1906)、坪内逍遙台本・東儀鉄笛作曲《常闇》( 1906)など、国産の音楽劇の試みも行われました。
大正期には娯楽性の強い浅草オペラがもてはやされ、庶民の人気を得ましたが、本格的な国産オペラの上演は、昭和15年( 1940)の山田耕筰作曲《夜明け》に至ります。
文部省唱歌の刊行により、明治期以来の課題であった唱歌国産化を達成した後の大正期には、日本語の詩と音楽の新たな結びつきを探求する様々な運動が起こりました。
この時期に歌曲を中心に活躍した作曲家には、山田耕筰の他に小松耕輔、本居長世、梁田貞、中山晋平、藤井清水、弘田竜太郎、成田為三らがいます。
彼らは大正7年( 1918)に起こった童謡運動に参加したほか、本居長世は新日本音楽運動、中山晋平と藤井清水は新民謡運動にも関わりました。
また、本居と弘田は東京音楽学校の邦楽調査掛で伝統音楽の採譜に携わり、小松、藤井、中山は民謡の採集採譜にもあたりました。
これらの活動を通して発見されたり試みられたりした伝統音楽の語法は、歌曲以外の創作活動にも生かされ、昭和期の民族主義的な流れに繋がっていきます。
昭和期に入ると、創作活動は歌曲から管弦楽曲へと中心を移して、さらに活発化していきます。それに符合するように、昭和5年(1930)には東京音楽学校の本科・器楽部に初めて管楽器の専攻が置かれ、昭和7年には本科に作曲部が開設されて、橋本國彦が初代の主任教授となりました。
昭和16年(1941)に太平洋戦争が開戦し、昭和20年に終戦を迎えるまでは、音楽にも様々な統制や圧力が掛けられただけでなく、戦争によって多くの音楽家の命も奪われました。
しかし、一方で時局がらみではありましたが、一般に日本を表象する創作は推奨されました。その間に抑えられていた自由な音楽活動への渇仰は戦後に一挙に開花し、新旧スタイルの入り混じった現代音楽の時代が現出するのでありました。