明治後期以後の伝統音楽の創作活動
第2期には、伝統音楽の世界にも近代的な感覚による新しい創作の動きが始まりました。その中心にあったのは、音楽的自律性の高い箏曲と尺八であります。箏曲家の宮城道雄は、朝鮮にいた明治42年(1909)に作曲した処女作《水の変態》以来、新しい箏曲の創作を続けてきましたが、大正6年( 1917)に上京し、大正9年( 1920)に尺八の吉田晴風、作曲家の本居長世と共にく新日本音楽演奏会〉と銘打った作品発表会を開きました。
伝統音楽の普及
西洋音楽の手法を取り込んだ宮城らの創作活動は以後、く新日本音楽>と呼ばれるようになりました。やがて大正11年( 1922)頃、上京した中尾都山がこの運動に協力し、宮城と共に各地を巡演して新曲は全国的に広まりました。
宮城は《唐砧》(1914)、《桜変奏曲》(1923)、《春の海》(1929)など、西洋音楽の楽曲形式や技法を意識的に取り入れた新作を、数多く発表して箏の技法を拡大しました。
また、合奏において低音域を充実させるために、十七弦や八十弦の箏の試作も行いました。長唄の世界でも、歌舞伎から離れて音楽だけで自立しようとする新しい試みが始まりました。
その中心になったのが明治35年( 1902)に、3世杵屋六四郎(後の2世稀音家浄観)と、4世吉住小三郎(後の慈恭)が始めたく長唄研精会〉であります。
研精会は会員を募って定期演奏会を催す一方、2人の合作で《鳥羽の恋塚》(1903)、《紀文大尽》(1911)など、演奏会専用の新曲を次々と発表し新しい長唄の鑑賞者を開拓しました。
この時期には研精会以外でも、坪内逍遥の『新楽劇論』の理念を体して、5世杵屋勘五郎が作曲した《新曲浦島》( 1906)などが生まれまひたが、いずれも西洋音楽の手法を意識的に取り入れたものではありませんでした。
大正期には、4世杵屋佐吉が新日本音楽に倣ってく三弦主奏楽〉という歌のない三味線合奏曲を発表し、セロ三味線・豪弦などの低音三味線や、咸弦という電気三味線を考案しましたがさほど普及はしませんでした。
尺八でも7孔尺八のほか、昭和初年には大倉喜七郎により、金属製の尺八式歌口にべーム式フルートのキー・システムを取り付けた「オークラウロ」が考案されました。
また、大正期にはレコードやラジオ放送といった新しいメディアが実用化され、西洋音楽ばかりでなく、当時人気の高かった伝統音楽の普及にも大いに利用されました。
昭和期に入ると山田流の中能島欣一が、戦後の現代邦楽を先取りするような、極めて近代的な感覚を持つ三弦独奏曲《盤渉調》(1941)や箏独奏曲《三つの断章》( 1942)を作曲しました。
伝統音楽の展開と創作活動
日本の伝統音楽の研究が本格的に始まるのも1900年以降であります。日本音楽に関する研究は、すでに音楽取調掛の調査(おもに雅楽・ 箏曲・長唄)や、初の日本音楽通史である小中村清矩「歌舞音楽略史』 (明治21年)があります。
同じく日本音楽の初の音階論である、上原六四郎『俗楽旋律考』(明治 28年)などが先鞭をつけていましたが、明治40年( 1907)には東京音楽学校に邦楽調査掛が設置されました。
そこでは高野辰之・黒木勘蔵らを中心に、各種目の録音と五線譜による採譜、『近世邦楽年表』の編集、多種目に渡る演奏会の開催などを行いました。
これより先の明治38年( 1905)には、ドイツから帰国した田中正平(理学博士で純正調オルガンの発明者)が、日本音楽研究の必要性を痛感して自宅に邦楽研究所を設け、田辺尚雄ら共に五線譜による採譜を開始していました。
伝統音楽の五線譜化は、これ以後、日本の伝統的な音の世界を探究しようとする作曲家や研究者によって盛んに行われ、その音楽的特徴を具体的に明らかにしていきました。
田中はまた、種目を越えた日本音楽の鑑賞団体である<美音倶楽部>を組織し、伝統音楽の世界にも西洋音楽の演奏会のシステムを持ち込みました。
伝統音楽の世界は、このような調査研究、あるいは鑑賞の対象となることで、種目を越えた外側からの視点を持つようになっていきました。
明治維新から80年近く、様々な変化を乗り越えて歩んできた伝統音楽の世界は、明治期から戦前まで伝統音楽を支えてきた社会が解体される戦後に、再び曲がり角を迎えることになりますが、やがてそれをも乗り越えて現代まで生き続けてきたのであります。