日本の作曲歴史は西洋古典音楽から始まる
西洋音楽の手法による芸術音楽の創作は、日本では1900年頃に始まります。ヨーロッパでは19世紀半ば頃から、ロシア、東欧の作曲家たちがドイツ古典派・ロマン主義の音楽を範として、そこに自分たちの民族性を意識的にあるいは無意識的に反映させた音楽を書くようになりますが、それと同種の創作活動が日本においても始まるのでありました。
1900~29年
ヨーロッパの非西欧の作曲家たちは、自分たちと同時代の西欧の音楽を対象にしたのに対し、日本の作曲の歴史は、ドイツ古典派・ロマン主義を中心とする西洋の古典的な音楽を対象にするところから始まります。
20世紀前半はその傾向が続きますが、1945年以降は西洋の同時代の音楽の動向とほぼ並ぶようになります。1879年に文部省内に設置された音楽取調掛(のちの東京音楽学校、現在の東京芸術大学)の生徒によって書かれた作品が、西洋音楽の手法を用いた日本の芸術的な音楽作品の初期の例となります。
1897年に幸田延がヴァイオリン・ソナタを作曲、1900年には同校に学んだ滝廉太郎が、歌曲集《四季》、歌曲《荒城の月》、ピアノ曲《メヌエット》を作曲、滝は1903年には絶筆となるピアノ曲《憾》を作曲しました。
日本の芸術歌曲、器楽曲の草分けとなるこれらの作品は、小規模な作品でしたが1910年代に入ると、より大規模な作品が書かれるようになりました。
東京音楽学校を卒業してベルリン高等音楽学校に留学した山田耕筰が、留学先での卒業制作として1912年に作曲した交響曲《かちどきと平和》は、古典的な交響曲のスタイルを踏まえて書かれており、初の本格的な器楽作品となりました。
これより以前に山田は、東京音楽学校在学中の1907年から08年にかけて弦楽四重奏曲を書いていますが、それらの作品と比べても交響曲《かちどきと平和》は、作曲技法の熟達を示しています。
幸田、滝、山田のこれらの作品は、ドイツ古典派・ロマン主義の音楽の影響下にありますが、山田が1913年に作曲した2つの交響詩《暗い扉》と《曼陀羅の華》には、後期ロマン主義と表現主義音楽の影響が現れています。
また、山田が1910年代に書いた《プチ・ポエム》と題されたピアノ曲には、スクリャービンの和声法からの影響が認められます。
山田は同時代の音楽に早くから注目した作曲家としても特筆され、殆ど山田の一人舞台と言える1910年代に対し、1920年代には山田の次の世代が台頭してきます。
彼らは主にドイツやフランスに留学して作曲を学び、例えば池内友次郎は、1927年から36年にかけてパリ音楽院に学び、諸井三郎は1932年から34年にかけてベルリン音楽大学に学びます。
平尾貴四男は、1931年から4年間フランスのスコラ・カントルムに学びました。このように1920年代には1910年代に引き続いて、西洋音楽の作曲法をより体系的に学ぶ伝統が築かれていきました。
また、1920年代には菅原明朗のオーケストラ作品《内燃機関》(1929)のように、近代フランス音楽に影響を受けたとみられる作品も書かれています。
1930~45年
1930年代に入っては、日本の作曲界は飛躍的に発展することになります。それを象徴する出来事として、1932年の東京音楽学校における作曲科の設置と、1930年のく新興作曲家連盟〉(現在の日本現代音楽協会)の発足が挙げられます。
東京音楽学校に作曲科が設置されることによって、体系的な作曲教育が普及していくことになり、またく新興作曲家連盟〉の発足によって、作品を定期的に発表する気運が高まっていくこととなりました。
く新興作曲家連盟〉は1935年に国際現代音楽協会に加入し、日本の作品を海外に紹介するようになります。1937年にパリで開かれた国際現代音楽協会の音楽祭に入選した、外山道子の声と器楽アンサンブルのためのくやまとの声〉は、日本人作品としては初めての入選作品となりました。
作曲活動が活発になるにつれて様々な作風が生まれていきます。その主な傾向として、西洋音楽を志向するアカデミックな傾向と、日本の伝統音楽を拠り所とする民族主義的な傾向が挙げられます。
1920年代までは西洋の作曲技法の習得に偏り気味であったのに対し、1930年代にはそれに代わり民族主義的な傾向の方が優勢になっていきました。
民族主義的な萌芽は1920年代の終わりに既にみられ、例えば橋本国彦は歌曲《舞》( 1929)をはじめとして、日本語の口誦性と日本の音階を生かした歌曲を書き上げました。
箕作秋吉は、オーケストラのための《二つの詩》(1928)を作曲した時の日本的な旋律と西洋の和声との違和感をもとに、東洋的な和声体系を考案し、その成果を『音楽の時』(1948) に著しています。
1930年代に書かれた民族主義的な作品として次のような作品が挙げられます。
伊福部昭《日本狂詩曲》(1935)
早坂文雄《古代の舞曲》(1937)
松平頼則《南部民謡によるピアノと管弦楽のための主題と変奏曲》(1939)
平尾貴四男《古代讃歌》(1935)
清瀬保二《古代に寄す》(1937)
深井史郎《日本俚謡による嬉遊曲》(1938)
これらの作品はいずれもオーケストラ作品でありますが、その一方で交響曲、ピアノ協奏曲などのように、日本的な標題を持たず西洋の古典的な作法による作品は、1930年代には比較的少ないことが垣間見えます。
1940年代に入ると、1920年代から30年代にかけて欧米に留学した作曲家たちや、東京音楽学校作曲科出身の作曲家たち、例えば高田三郎、團伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎らが作曲活動を始めます。
それに伴って1930年代には民族主義的な作品が優勢であったのに対し、1940年代には民族主義的な作品と、西洋音楽の作法によるアカデミックな作品の数は、ほぼ同等の割合になっていきました。
1940年代に書かれたアカデミックな作品は、1930年代までのアカデミックな作品に比べて、作曲技法がより一層熟達していて、またそのモデルとなる対象は、ドイツ古典派・ロマン派の音楽だけでなく、20世紀初頭の近代の音楽に及んできます。
例えば芥川の《交響管弦楽のための音楽》(1949) や、黛の《10楽器のためのディヴェルティメント》(1949)などには、ヨーロッパの1920年代の新古典主義の作品からの影響が垣間見れます。
しかし、西洋音楽のスタイルに習熟する一方で、1940年代の民族主義的な作品は、1930年代の民族主義的な作品に比べて、民族主義的要素が緩和される傾向もみられます。
そして演奏界に目を向けると、1927年に設立されて定期演奏会を開始したNHK交響楽団に続いて、1940年代には東京フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団が設立され、定期演奏会を始めるなど職業オーケストラの活動が活発になりました。
演奏会に西洋の古典派、ロマン派、近代の作品のプログラムが定着するようになります。その後の演奏界は、これらの西洋音楽を主なレパートリーとして演奏水準を高めていくこととなりました。
一方の作曲の分野では、20世紀前半の近代の音楽だけでなく、20世紀後半の同時代の音楽にも注目するようになりました。演奏分野の志向するものと、作曲分野の志向するものとの分岐も始まりました。