20世紀中頃より普及する前衛音楽の諸手法

1945年以降、十二音技法をはじめとするセリアリズム、電子音楽、ミュジック・コンクレート、トーン・クラスター、不確定性などの20世紀の前衛音楽の諸手法、これが欧米で実践されるのとほば同時期に日本にも取り入れられるようになりました。ただ欧米においても前衛的な手法が普及するのと並行して、新古典主義的な作品が書かれているのと同様に日本においても、前衛的な音楽が書かれる一方で新古典主義的な作品も書かれています。

1945~69年

前衛的な作曲活動は、戦後の混乱が一段落した1950年代に顕著になっていきます。入野義朗は1951年より、十二音技法を紹介する論文を執筆するほか、実際に十二音技法を使って《7楽器のための協奏曲》(1951)を作曲しました。

この作品は、日本人の手になる十二音技法を使った先駆的な作品となりました。これに続いて諸井誠も十二音技法により、オーケストラのための《コンポジション第1番》(1953)、ピアノのための《アルファーとべーター》(1954)を作曲しました。

柴田南雄も《北園克衛による3つの詩》(1958)において、セリー技法を用いています。黛敏郎は1953年にミュジック・コンクレート作品《X・Y・Z》を制作した後、1955年には諸井誠と共作で電子音楽《7のヴァリエーション》を制作しています。

これらの作品は日本におけるミュジック・コンクレート作品、電子音楽作品の先駆的な例となりました。また、1950年代後半から60年代にかけては、欧米の同時代の前衛音楽を日本に紹介する動きも活発になります。

特に柴田、入野、 諸井誠、黛らによって1957年に結成されたく20世紀音楽研究所〉は、定期的に音楽祭を開いて、メシアン、シュトックハウゼン、ブーレーズの作品など欧米の同時代の音楽を紹介し、日本の前衛的な作曲活動を触発する機会となりました。

く20世紀音楽研究所〉他の活動を通して紹介された前衛音楽の手法を反映した、松下眞ーのピアノと打楽器のための《カンツォーナ・ダ・ソナーレ》(1960)、篠原眞の打楽器アンサンブルのための《アルテルナンス(交互)》(1962)、下山一二三のオーケストラのための《リフレクション》(1969)などが発表されました。

これらの作品の中で松下の《カンツォーナ・ダ・ソナーレ》は、国際現代音楽協会第35回音楽祭に入選し、下山の《リフレクション》は同第43回音楽祭に入選しています。

西欧の前衛音楽から影響を受けるだけでなく、そこから独自の作風を提起して、それが国際的にも評価されるようになるのも、1950年代後半から60年代にかけてのことでありました。

前衛的な作品を発表した作曲家たちの中にはその後、邦楽器や日本伝統音楽に注目した作品を発表する例がみられます。

例えば入野は《二十弦箏と十七弦箏のためのファンタジー》(1969)、2尺八とオーケストラのための《ヴァンドルンゲン》(1973)など邦楽器を使った作品を制作し、諸井誠も尺八のための《竹籟五章》(1964)、尺八二重奏曲《対話五題》(1965)を作曲しました。

黛は梵鐘の響きや読経の声を、オーケストラと合唱に反映させた《涅槃交響曲》(1958)を作曲しました。柴田は胡弓と太棹三味線のための《閏月棹歌》(1971)を作曲しました。

日本伝統音楽の要素を使った民族主義的な作品は、戦前においても見られましたが、戦前の作品においては日本伝統音楽の要素は、日本の音階や5度和声などの音高組織に主に現れていました。

それに対し戦後の作品においては、音高組織だけでなく、リズム、音色、テクスチャーにも反映されるようになります。

調性から解放された無調性、十二音技法、あるいは電子音響や具体音などを使った前衛音楽は、日本伝統音楽の響きや邦楽器の音色と近い関係にあったために、前衛音楽が導入されるにつれて、日本伝統音楽が作曲家に示唆を与えたと言えます。

3度和声による調性体系を伝統にもたない日本の作曲家にとって、調性体系が崩壊したところに起こった前衛音楽は、日本伝統音楽をそこに導入したり、あるいは作曲者自身の感性をより直接的に反映させる契機となったのです。

間宮芳生と松平頼則は、日本的な発声法やテクスチャーを合唱やオーケストラに取り入れた作品を書いています。

間宮は1958年に始まるく合唱のためのコンポジション〉のシリーズにおいて、西洋の伝統的なハーモニーによる合唱曲ではなく、民謡のカケ声やハヤシ言葉などを発声する際のエネルギーを表現する合唱曲を書いています。

松平は《催馬楽によるメタモルフォーゼ》(1953)をはじめとする雅楽を使った作品において、雅楽の旋律を用いるだけでなく、奏法やテクスチャーにおいても雅楽の特徴を反映させています。

八村義夫のフルート、ヴァイオリン、発声者、ピアノのための《しがらみ》(1959)は、江戸時代の浄瑠璃に示唆を得た作品で、発声者には咽喉を締めた声や呼吸音が指示され、器楽パートは無調の響きで声に対応しています。

これらの作品が制作されるのと相まって、邦楽器奏者による演奏グループが結成され、そのグループのための作品も制作されるようになりました。

例えば1958年に尺八、三絃、箏、十七弦の4人のメンバーによるく邦楽四人の会〉が第1回演奏会を開催します。それ以後は古典の曲の他、作曲家に委嘱した現代曲とによるプログラムで演奏活動が行われています。

1964年には尺八、三絃、琵琶、箏、十七弦、打楽器(のちに笛も参加)と指揮者、ならびに作曲家をメンバーとするく日本音楽集団〉が第1回演奏会を開催します。それ以後は数人編成のアンサンブル作品や、十数人編成の合作作品の新作が発表されました。

邦楽器の演奏グループのために、廣瀬量平は2面の箏、二絃、尺八、チェロのための《トルソ》(1963)、3本の尺八と弦楽器群のための《霹》(1964)などを書いています。

三木稔はく日本音楽集団〉のために《古代舞曲によるパラフレーズ)(1966)、《4群のための形象》(1967)を作曲する他に、箏奏者の野坂恵子と協力して、二十弦箏のための《天如》(1969)を作曲しました。

その後の二十弦箏は、現代邦楽の分野で不可欠の存在となりました。これらの邦楽のための作品は、邦楽器の音色特性に、日本の音階や西洋音楽のイディオムを取り入れた作風となっています。

日本伝統音楽の音素材の特徴を反映させたこれらの作品に対し、日本音楽の理論的な特徴を反映させた作品もあります。

例えば、福島和夫の《エカーグラ》(1957)や《冥》(1962)他のフルートのための作品では、無調的な旋律と非拍節的リズムの中に、日本の横笛のイディオムに通じる音程の徴妙な動きやリズム語法が見られます。

湯浅譲二の2本のフルートのための《相即相入》(1963)では、能囃子のみはからいを意図して、2本のフルートのそれぞれにテンポを変化させ、2パート間の関係を流動的なものにしています。

1960年代には西欧の前衛音楽に加えて、アメリカの新たな動向が紹介されます。1961年に開かれたく20世紀音楽研究所〉の第4回音楽祭において、アメリカから帰国した一柳慧によって紹介されたケージの偶然性の音楽、ウルフ、フェルドマンらのアメリカ実験主義音楽がそれにあたります。

調性崩壊後の西洋の作曲家たちが、辿ってきた前衛音楽の主要な動向の殆どが日本に紹介されたことになります。これらの実験主義音楽が紹介された頃から、日本においても実験主義的な動向が活発になりました。

一柳の図形楽譜による、あるいは言葉の指示のみによる《ピアノ音楽》(1959~61)、松平頼暁の各部分の演奏順序を演奏者が選択するチェロとピアノのための《コ・アクション》(1962)があります。

その他にも水野修孝、小杉武久、塩見允技子らによって1961年に結成された、くグループ音楽〉の集団即興演奏などがその例であります。

これらの実験主義的な音楽が発表される一方で、1960年代には西欧の前衛音楽や、アメリカ実験主義音楽の諸手法を通して、個性的な作風がはっきりと現れてくるようになります。

例えば、武満徹は《ルリエフ・スタティック》(1956)、《水の曲》(1960)などのミュジック・コンクレート作品を書いた後に、映画音楽の《切腹》(1962)、《怪談》(1964)の作品があり、オーケストラの楽器の他に琵琶、尺八、三味線などの邦楽器を使用しています。

その後の1967年に、琵琶と尺八とオーケストラのための《ノヴェンバー・ステップス》を作曲しています。《ノヴェンバー・ステップス》のオーケストラ・パートには、弦楽器パートを一人の奏者の単位にまで細かく分けて、群的な響きを作るトーン・クラスターの手法が使われています。

こちらは、一つの声部から数十声部までの間を扇状にしなやかに変化するテクスチャーは、武満の個人語法と言えるものです。

この作品でのトーン・クラスターや、弦楽器とハープの打楽器的な扱いによる騒音的な響きは、琵琶のばち音や尺八のむら息と対応し、琵琶、尺八とオーケストラとは違和感なく協奏しています。

トーン・クラスターは、西欧ではセリアリズムや電子音楽の延長上に培われた手法であるのに対し、武満の《ノヴェンバー・ステップス》においては、邦楽器の音色特性に示唆を得ていることが伺い見れます。

松本禎三も《弦楽四重奏とピアノのための音楽》(1962)、《管弦楽のための前奏曲》(1968)、《ピアノ協奏曲第1番》(1973) などの諸作において、独自の方法で群的な響きを生成した作品を残しています。

半音階的音程によって蛇行的に動くオスティナート旋律が、パート間で絡まるように重なり合って、トーン・クラスターに近い響きを作り出すところに松村の語法が垣間見れます。これには作曲者にとってのアジアのイメージに触発されています。

湯浅譲二の箏とオーケストラのための《花鳥風月》(1967)、オーケストラのための《クロノプラスティック》(1972)、《オーケストラの時の時》(1975)などの作品も、個々の奏者の単位にまで分けて、オーケストラから多層的な響きを作り出しています。

作曲者はそれを「多数の音」であって「ひとつの音」という、日本的な音色感から発想しています。三善晃は1960年代には、《ピアノ協奏曲》(1962)、《管弦楽のための協奏曲》(1964)をはじめとする作品で、無調的な語法で作曲した作品を残しています。

しかし、西欧における無調音楽が、調性音楽における主音や短2度の導音的働きを解消する方向に向かったのに対し、三善の無調語法には、調性音楽におけるのとは別の中心音や、短2度の導音的働きが見られます。

1970年代以降~それぞれの作曲者

合唱とオーケストラのための《レクイエム》(1971)、《チェロ協奏曲》(1974 ) などの1970年代の諸作において、三善は図形楽譜を使ってリズムに不確定な要素を取り入れています。

これらの作品では、漸次的に間をつめていく三善のリズム語法が、より直接的に反映されています。《レクイエム》の合唱パートは無声音や語りにより、オーケストラ・パートの騒音的な響きと呼応しています。

石井真木は、ポスト・ヴェーベルンの影響下にあった1960年代を経て、1970年代に自身の方法を打ち出していきます。

石井の日本太鼓群とオーケストラのための《モノプリズム》(1976)では、7人の奏者による締太鼓の連打に対し、オーケストラは各パートが細分されて群的な響きを発します。

邦楽器と前衛的に扱われたオーケストラとが協奏する作品であると同時に、締太鼓の静的なソロから、オーケストラのダイナミックなトゥッティに至るまで、極端に対照的な響きを駆使する点に石井の作風が現れています。

武満、松村、湯浅、三善、石井のこれらの作品には、無調性以後、音高組織やリズムが自由なものになり、具体音、電子音響、トーン・クラスターへと音素材も開かれたものになりました。

それにつれて、日本語の特性や邦楽器の特性、ひいては作曲者の音感覚が、伸び伸びと引き出されていくのが垣間見れます。

1970年に6ヵ月間に渡って大阪で開かれた国際万国博覧会は、戦後から1960年代にかけて欧米の同時代の動向を取り入れつつ、独自の作風を育んできた日本の作曲家たちの成果が一堂に会する場となりました。

その中で「鉄鋼館」で上演された武満徹の《クロッシング》(1970)は、独奏楽器、女声合唱、2群のオーケストラを広い空間に配して同時進行させる作風となりました。

他にも高橋悠治の《慧眼》(1969)は、四つのステレオを通して音を多元的に重ねる作品であり、「電気通信館」における湯浅譲二の《テレフォノパシイ》(1969)は、世界各国の電話交換手の声を素材とし、それらが空間の中に飛び交う作品となりました。

いずれの作品も音素材の開拓から空間へと、関心が広がっていった欧米の動向に並びつつ、その中に作曲者それぞれの視点が反映された作品となりました。

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