次世代と創作振興の20世紀末
新しい世代の登場
1980年代から1990年代にかけては、さらに若い世代がデビューしました。国際現代音楽協会音楽祭に入選している田中カレンは《オーケストラのためのプリズム》(1984)をはじめとする数々の作品を書きます。ルトスワフスキ国際作曲コンクールに第1位入賞した江村哲二はくオーケストラのための「インテクステリア〉(1992) をはじめ数々の作品を書きます。女性として初めて尾高賞を受賞した藤家渓子はく思いだす、ひとびとのしぐさを〉(1994)の作品を書き、尾高賞を受賞した猿谷紀郎はくゆららおりみだり〉(1993)の作品を書きました。これらの作曲家は1960年代に生まれた作曲家たちであります。
1980年代以降
1980年代には、若い作曲家を発掘しようとする作曲コンクールが新たに設けられます。1982年に始められた「今日の音楽・作曲賞」、日本現代音楽協会の主催により1984年に始められた「現音作曲新人賞」、1991年に始められたサントリー音楽財団主催の「芥川作曲賞」、「秋吉台国際作曲賞」などがそれにあたり、いずれも将来性に評価基準を据え置いています。
このような作曲コンクールが設けられるのは、指針となる存在と目される次世代の作曲家がいない状況であることが関係しているかも知れませんが、これらのコンクールからは、明確なコンセプトを持つ個性的な作曲家も選ばれています。
例えばくDIES IRAE/LACRIMOSA (怒りの日/嘆きの日)〉(1995)で芥川作曲賞を得た権代敦彦、くDual Personalityー打楽器独奏と2群のオーケストラのための〉(1996)で同じく芥川作曲賞を得た川島素晴などが挙げられます。
これらの1960年代以降に生まれた作曲家たちの作品は、ポスト・セリアリズム、ニュー・シンプリシティを経て、ポスト・モダンへと移り変わります。
1960年代から1980年代にかけて変遷した作曲スタイルのいずれかに還元しうるものではなく、それらの総体を背景に持ち合わせている点が特徴として挙げられます。
創作の振興の広がり
1990年代以降、開館記念や各種周年事業の一環として、日本のオペラ創作を振興する動きが各地に見られるようになります。
例えば、1990年には水戸芸術館の開館記念として間宮芳生《夜長姫と耳男》が初演され、1993年には鎌倉芸術館開館記念として三木稔の《静と義経》があります。
1994年には第1回神奈川芸術フェスティヴァルで團伊玖磨《素戔鳴》、1997年には新国立劇場開館記念として團《建TAKERU》が初演されるなど、オペラ創作に重きを置いていた間宮、三木、團といった作曲家たちは引き続きオペラを作曲しました。
その一方で、オペラよりもオーケストラ作品や、器楽作品を中心に書いていた作曲家の初のオペラ作品も生まれています。
例えば、1993年には日生劇場開場30周年記念として松村禎三《沈黙》、1995年には文化庁芸術祭50周年記念として一柳慧《モモ》、1996年には京都を本拠とする22世紀クラブの委嘱による藤家渓子《鑞の女》があります。
その他にも1999年には仙台開府400年を記念した三善晃《遠い帆》、2000年には日生劇場が委嘱した石井真木《閉じられた舟》が初演されています。
2005年には愛知万博開催記念の一環として、新実徳英のシンフォニック・オペラという、新しいオペラのあり方を提起する 白鳥》が初演されました。
これらのオペラは、それぞれの作曲家のオーケストラ作品や器楽作品の特徴が反映されて、声と器楽の複合芸術としてのオペラのレパートリーを豊かにしています。
ミュンヘン・ビエンナーレの委嘱により作曲され、1999年に静岡芸術劇場で日本初演された細川俊夫《リアの物語》は、能の所作を思わせる身体の動きにより、日本のオペラ創作の新たな局面を示しています。
音楽ホールや劇場の開館や記念の年には、海外からオペラ団体を招聘する傾向にあった時代と違って、各地域でオペラを生み出し発信しようとする意識が育まれている点が特筆されます。
音楽ホールによる創作振興は、オペラ以外にも見られ、東京オペラシティ文化財団が運営する東京オペラシティ・コンサートホールは、武満徹作曲賞を創設しました。
1997年の開館以来、毎年一人の作曲家に審査を依頼して、国内外の若手作曲家にオーケストラ作品を公募し、新進作曲家を発掘していきました。
ルチアーノ・べリオが審査した1999年には、前田克治《絶え間ない歌》、以東乾《ダイナモルフィア》、渡辺俊哉《ポリクロミー》が上位入賞しました。
同リサイタル・ホールでは、若手演奏家を登場させて、バッハと現代の作品をプログラムに組む「B→ C (バッハからコンテンポラリーへ)」と称する、リサイタル・シリーズが企画されました。
2001年の平野公崇サクソフォン・リサイタルにおける、平野《インプロヴィゼーションB→ Cーライヴ・エレクトロニクスを用いて》のように、演奏者から発信される作品も同シリーズから生まれています。
大阪のいずみホール、東京の紀尾井ホール、名古屋のしらかわホールが作曲共同委嘱「いずみ・紀尾井・しらかわ3ホール共同プロジェクト」を企画し、初年度の2000年には西村朗と金子仁美に委嘱され、西村《オーボエ協奏曲「迦桜羅」》と金子《グリゼイの墓》が3ホールにて演奏されました。
作品振興のスポンサーシップが複数のホールに渡って組織的になり、現代の作品をより広く普及させる活動として特筆されます。演奏者の自発的な動機からも創作は振興されます。
「東京シンフォニエッタ」は、1945年以降の欧米の作品を演奏する他は新進作曲家に委嘱し、江村哲二《リディアン》(1995)や、河村真衣(1979~)《ロバーイー》(2007)のように、新進作曲家の作品を生み出すこととなりました。
「新しいうたを創る会」は会員を募り、その会費を委嘱料として詩人と作曲家に詩と音楽を委嘱して、全国の各支部で初演演奏会を行い、新しい歌を創作し普及させる活動を展開しました。
「新しいうたを創る会」の活動からは、一柳慧《歌とマリンバのための「私の歌」》(1994)、近藤譲《サッフォーの3つの詩片》(2003)等、それまで歌をあまり書いていなかった作曲家から歌が生まれるようになりました。山本裕之(1967~)《労労亭の歌》(2004)をはじめとする若手作曲家の歌も生まれています。
日本における現代音楽祭は、前衛志向の時代には欧米の作品を紹介する傾向にありましたが、1990年には日本作曲家協議会の主催により「アジア音楽祭’90」が開催され、タン・ドゥン(中国)《オン・タオイズム》、姜碩熙(韓国)《タール》の日本初演をはじめ、アジアの作曲家の作品が演奏されました。
アジア音楽祭はそれ以後も開催され、2003年のアジア音楽祭では、日本、台湾、フィリピン、ベトナム、インドネシア他のアジア作曲家連盟に加盟する国の作曲家の作品が演奏されました。
欧米の新たな動向に関心が行きがちだった時代を経て、日本の作曲家、演奏家、聴衆が自分たちの音楽を生み出していこうとする気概が育まれつつありました。