音楽情報・専門分野・高校・専門・大学・クラシック・ポピュラー音楽など

ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 Op.23 第1楽章【チャイコフスキー】~音楽作品 名曲と代表曲

 

 

ピアノ協奏曲の域を超えクラシックの代名詞といってもいいほどの有名曲

 

ピアノ協奏曲第1番Op.23は、1874年11月から1875年2月にかけて作曲され、チャイコフスキーが友人のモスクワ音楽院院長のニコライ・ルビンシテインに刺激を受け、初めて作曲したピアノ協奏曲です。

 

交響曲第3番やバレエ『白鳥の湖』などを書き上げ、すでに作曲家としてかなりの評価を得て円熟期に入っていた頃、チャイコフスキーは後の代表作の一つとなる作品に着手します。

 

1874年に初めて構想が示され、「ピアノ協奏曲に手をつけたいのだが、なぜか始められない。」「知恵を絞って考えているのだが、作曲はなかなか進まない」と弟宛ての手紙で告白しています。

 

ピアノ協奏曲第1番は、チャイコフスキーがモスクワ音楽院の作曲科の教授を務め、休暇はウクライナ地方で過ごすといった生活の中から生まれた楽曲です。

 

1874年暮れの11月頃から着手し、同年の12月21日には4手連弾の編曲で作品は完成していました。チャイコフスキーは、出来上がったばかりのピアノ協奏曲第1番を24日のクリスマスイヴの夜、ニコライ・ルビンシテインと理論のグーベルト教授に自らのピアノ演奏で初披露しました。

 

チャイコフスキーはこの曲を当時最大のピアニストであった、ニコライ・ルビンシテインに献呈し初演してもらうつもりでいましたが、「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、貧弱な作品で演奏不可能であるので、私の意見に従って根本的に書き直すのが望ましい」と酷評され激しく非難されてしまいました。

 

あまりに難曲な上に、作曲にあたって何の相談もなかったのが気に障ったようで、チャイコフスキーは友人であるルビンシテインの言葉に従わず、以前から親交のあったドイツの名ピアニスト兼指揮者ハンス・フォン・ビューローに譜面を送って演奏を依頼しました。

 

ビューローは「このように偉大な曲の初演ができるとは光栄だ」と語り、1875年10月25日に演奏旅行先のアメリカのボストンにて、ハンス・フォン・ビューローのピアノとベンジャミン・ジョンソン・ラングの指揮により初演が行われ大成功を収めました。

 

この様子はビューローからチャイコフスキーの元に電報で知らされ、また楽曲は初演者のハンス・フォン・ビューローに捧げられています。

 

ビューローはその後の演奏会でもアンコールに応え、「演奏の度に第3楽章を繰り返さなければならなかった」と、チャイコフスキーに宛てた手紙の中で伝えています。

 

ビューローから私の協奏曲について書いてある、アメリカの新聞の切抜きが、山のように入った手紙が届きました。

 

チャイコフスキーはリムスキー=コルサコフへの手紙の中で、ビューローから届いたこのうれしい知らせを紹介しています。これが口火となりチャイコフスキーの名声は世界へと広がっていきました。

 

ロシア初演は、世界初演の1週間後にサンクトペテルブルクにおいて、ロシア人ピアニストのグスタフ・コスとチェコ人指揮者のエドゥアルド・ナプラヴニークによって行われました。

 

ルビンシテインも時が経つにつれこの楽曲の良さを認め、自らも演奏するようになり、モスクワ初演はニコライ・ルビンシテインの指揮、セルゲイ・タネーエフのピアノによって行われました。

 

ルビンシテイン自身もその後は何度も独奏ピアノを受け持ち、この協奏曲を世に知らしめる役割を果たしました。

 

ニコライの態度に不満を持っていたチャイコフスキーもやがて心を開き、彼の意見を参考にして曲の改訂をしたと言われ、1879年の夏および1888年の12月に2度に渡って改訂されています。

 

初版ではアルペッジョの箇所であった、第1楽章冒頭のピアノによる分厚い和音はこの時に加えられたものです。

 

 

 
  




♪カテゴリー




ホーム RSS購読 サイトマップ
HOME コード検索 ぷりんと楽譜 音楽鑑賞 仕事選び すべての検索