ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77 第3楽章
ヴァイオリン協奏曲の中でも屈指の名曲とされる傑作
『ヴァイオリン協奏曲』は、1878年に作曲されたヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲で、ブラームスが45歳にして書いた唯一のヴァイオリン協奏曲です。
古今のヴァイオリン協奏曲の中でも屈指の名曲とされる傑作であり、本作品はベートーヴェンのOp.61、メンデルスゾーンのOp.64と並んで”3大ヴァイオリン協奏曲”と称されています。
交響曲第2番の翌年に書かれた楽曲で、ブラームス(45歳)の創作活動が頂点に達した時期の作品で、同年に発表されたチャイコフスキーのOp.35と並び、超絶技巧を要求する難曲となっています。
ブラームスの音楽は陰鬱で重苦しい表情が本領とされていますが、それは主に晩年の作品に見られるもので、若き日に書いたブラームスの作品は必ずしも荘重さが中心ではありません。
特にこの「ヴァイオリン協奏曲」は、二度に渡るイタリア旅行を契機として書かれた作品で、南国的な明るさと陽気さとを兼ね備えた親しみやすい作品になっています。
ブラームスはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を意識してこの曲を書いたと言われ、典型的な古典協奏曲のスタイルや、ニ長調という同じ調性を使用していることなどに、その影響を見い出すことができます。
ピアニストであったブラームスは、ヴァイオリン曲にはそれほど興味を示しておらず、青年時代に何度か着手したヴァイオリン曲は、いずれも未完に終わっていたり未出版として破棄されています。
しかし、1877年9月にバーデン=バーデンで、サラサーテ(当時の名ヴァイオリニスト)の「ブルッフのヴァイオリン協奏曲第2番」の演奏を聴き、ヴァイオリン曲に対する創作意欲を抱きました。
また、ヨーゼフ・ヨアヒムが弾くベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に感銘を受けたのが決定的な動機となり、ヴァイオリン協奏曲の作曲を決意しました。
翌年の1878年から創作に取り掛かり、当時夏の間に避暑地として過ごしていたペルチャッハで作曲され、8月中には殆どが書き上げられていました。
その後は親友のヨアヒム(ヴァイオリニスト)の助言もあり、四楽章仕立てから三楽章にまとめるなどの改訂が行われ、完成したのは1878年の暮れのことでした。
初演は1879年1月1日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて、ヨアヒムの独奏とブラームス指揮のもと、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって行われました。
初演は大成功を収め、評論家ハンスリックからは「これはブラームスとヨアヒムの友情の木に宿った美しい果実だ」と絶賛されました。
この初演の1週間後にはブダペストで演奏され、また翌週にはウィーンで演奏され、いずれもヨアヒムの独奏によって演奏され大好評に終わりました。