学習法の変革と器楽合奏の発展

第2次世界大戦の勃発直前、昭和12年近衛内閣のもとに始まった国民精神総動員運動は、一切の自由主義的な思想をことごとく統制する傾向を呈し、その状況下において文化面を扱う官庁く情報局〉が内閣に設置され、情報局による芸能の興行・演奏の制圧が始まりました。
当局はとかく遊惰に流れがちな芸能が戦意を高める上に不適当であるとし、浄瑠璃の歌詞を卑猥であるとして、文章を時局に適合する文章へと書き直すことを命じました。
歌舞伎の台本は至るところ検閲の白紙で覆われ、恋愛や情念を表現する内容の多い豊後系浄瑠璃の常磐津や清元は、時局に相応しくないとして演奏禁止が続きました。
情報局の命令により長唄審議会が発行した『改定歌詞集』には、当時の時代背景が反映されています。

戦後の現代邦楽の展開

第2次世界大戦終結後の占領軍の支配下で、今度は一転して歌舞伎の戦記もののように、軍国主義的な内容の作品が上演を制限されることになりました。

戦意を鼓舞する内容が多いという理由で、薩摩琵琶の演奏も厳しく制限されましたが、戦時中に上演禁止された歌舞伎の世話物や豊後系の浄瑠璃は、敗戦を境に再び活気を取り戻すことができました。

また、長唄の囃子方の場合のように、出征による演奏者不足によって、他流派との舞台上の共演という新たな展開も生まれ、その後の流派を超えた演奏者共演の習慣の契機ともなりました。

戦後の日本音楽には、邦楽の新たな運動の方向を示す用語として、昭和22年(1947)のNHKラジオ番組名、く現代邦楽の時間〉をきっかけにく現代邦楽〉が登場します。

現代邦楽の特徴は、作曲に携わったのが邦楽畑の演奏家だったこと、伝統的な語法を用いることが多かったことが挙げられます。

主な作曲家には、杵屋正邦、山川園松、宮下秀冽、中能島欣一などがいます。邦楽器への新たな試みの中から、近世までの日本音楽には見られなかった特徴も出てきました。

特に顕著なことは、学習法の変化と器楽合奏の発展にあります。これまで一人の師匠と弟子の関係で学習されていた邦楽の学習方法にも変化が現れました。

昭和30年(1955)に設立されたくNHK邦楽育成会〉は、箏・三味線・尺八による近世邦楽を中心とする演奏家養成のための組織であり、日本の楽器の演奏に五線譜を用いる学習方法を取り入れ、当時としては画期的な邦楽演奏家の養成機関でありました。

この育成会からは、その後の現代作品にも対応できる演奏家が数多く輩出しました。箏・ 尺八の合奏団の登場も戦後の新しい展開であり、作曲家に新作の委嘱を行うケースも出てきました。

この運動のきっかけを作ったグループが く邦楽四人の会〉であります。この会の第一回演奏会は昭和33年(1958) 年に開かれ、箏・尺八のための作品の委嘱は、その後に箏・尺八の現代作品を数多く生み出す契機ともなりました。

作曲家三木稔は昭和39(1964)にく日本音楽集団〉を創設しました。従来の長唄、箏曲、琵琶楽などのジャンルの枠を越えて、日本の楽器による合奏団を結成する試みを開始し、邦楽器の新しい展開を導きました。

三木が発案した二十弦箏(現在の弦数は21 本)は、十三弦箏の音色を踏襲して弦数を増やした箏であり、すでに市民権を得た楽器として現在広く用いられています。

この年から始まったNHKラジオのく現代の日本音楽〉では、洋楽作曲家による邦楽器を用いた作品が多く取り上げられるようになり、新日本音楽以後の洋楽的様式を取り入れたく現代邦楽〉とは、様式の異なるく現代音楽〉の作品が、日本の楽器のために多く書かれるようになりました。

現代音楽における邦楽器の語法には、伝統的に用いられていなかった方法があります。例えば、琵琶の弦を撥の才尻で擦ったり、箏の弦を棒で打ったり、ハーモニックスを使ったりする点が例として挙げられます。

主な作曲者としては、尺八作品《竹籟五章》を作曲した諸井誠、尺八と琵琶とオーケストラのための《エクリプス》や《ノヴェンバー・ステップス》を作曲した武満徹らがいます。

その他にも和太鼓とオーケストラのための作品《モノプリズム》 などを書いた石井真木、広瀬量平、柴田南雄、林光、湯浅譲二など、多くの作曲家がいます。そして、日本の楽器のために書かれる作品はその後も増え続けていきます。

日本の伝統的要素の重視と発展

昭和42年(1967年)に作曲された武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》は、これまで邦楽器に与えられた洋楽的なメロディーやリズムとは異なった点があります。

日本の伝統的なリズム感や音色の特徴、例えば自由リズムや付加リズム的な特徴、様々な倍音や色々な高さの音が複雑に混じりあった楽器特性など、琵琶と尺八によって日本の音色に再び焦点をあてた作品となります。

作品では、尺八の本曲の技法と薩摩琵琶の緊迫した撥捌きがそのまま取り入れられ、この作品を演奏した薩摩琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也が後続する若手の琵琶や尺八演奏家に与えた影響も大きく、次の石井真木による太鼓の作品と共に、その後の邦楽器使用の展開を方向付けました。

ヴァレーズの《イオニザシオン》に代表される、ヨーロッパにおける打楽器の再評価は、日本の作曲家にも大きく影響を与えました。

石井真木作曲の《モノプリズム》は、1976年に佐渡を本拠地とする太鼓グループ、鬼太鼓座とボストン交響楽団によってタングルウッド音楽祭(アメリカ)で初演された作品であります。

ここに登場する太鼓のリズムには、秩父屋台囃子の連続する1音のリズムが取り入れられました。鬼太鼓座の打法と合奏法は、その後の国際的な太鼓ブームを引き起こします。

国内にも100団体を超える太鼓グループが生まれ、各地の地域起こしにも取り入れられていきました。さらに1990年代には、ついにヨーロッパにも日本太鼓のグループが設立されるに至りました。

国立劇場の開場

昭和41年の11月1日、「主としてわが国古来の伝統的な芸能の公開、伝承者の育成、調査研究等を行い、その保存及び振興を図り、もって文化の向上に寄与する」ことを目的とした国立劇場法の趣旨に基づき、国立劇場が開場しました。

歌舞伎、文楽、雅楽、声明、舞踊、民俗芸能、邦楽の7部門の公演が企画上演され、全国の主要な伝統芸能を鑑賞する機会が公的に提供されるようになりました。

国立劇場の公演内容については、いくつかの特徴があります。第1に歌舞伎や文楽の上演にあたって、全作品通しの上演を原則とする点があります。

それは当時多くなってきた歌舞伎の名場面だけを上演する<みどり公演>(よりどりみどりから来た呼び方)ではなく、廃絶したり、上演されることの少なくなった場面をも復元して再演し、 全作品の完全な形を再現しようとする試みでもありました。

また、雅楽・声明の現代作品の初演をきっかけとして、国立劇場を中心に活動する<東京楽所>が設立され、宮内庁や寺社に属する演奏家のみによって演奏されていた雅楽器の一般化をもたらすと共に、雅楽作品のCD化を行ったり、様々な洋楽演奏家との共演の試みなど、雅楽楽器の可能性を大きく広げる形となりました。

当時演出を担当していた木戸敏郎の英断によって、宗教の儀式として聞かれていた声の音楽は、<声明>の名のもとに一般化し、グレゴリオ聖歌のような、音楽の原点としての地位が与えられることとなりました。

また、日本の民謡についての連続企画は、昭和40年代の民謡ブームを引き起こし、太鼓の連続企画や鑑賞教室という、レクチャーコンサート的な邦楽の聞き方も社会に大きな影響を与えました。

昭和54年3月には落語・漫才などを扱う国立演芸場、昭和58年9月に国立能楽堂が東京都に開場し、昭和59年3月には大阪に国立文楽劇場が開場しました。

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